ケネディが最も尊敬した日本人政治家「上杉鷹山」とは誰なのか?

 

天明の大飢饉をしのいだ扶助・互助

藩政府による「扶助」は、天明の大飢饉の際に真価を問われた。天明2(1782)年、長雨が春から始まって、冷夏となった。翌3年も同じような天候が続いた。米作は平年の2割程度に落ち込んだ。

鷹山が陣頭指揮をとり、藩政府の動きは素早かった。

  • 藩士、領民の区別なく、一日あたり、男、米3合、女2合5勺の割合で支給し、粥として食べさせる。
  • 酒、酢、豆腐、菓子など、穀物を原料とする品の製造を禁止。
  • 比較的被害の少ない酒田、越後からの米の買い入れ

鷹山以下上杉家の全員も領民と同様三度の食事は粥とした。それを見習って、富裕な者たちも、貧しい者を競って助けた。

全国300藩で、領民の救援をなしうる備蓄のあったのは、わずかに、紀州、水戸、熊本、米沢の4藩だけであった。

近隣の盛岡藩では人口の2割にあたる7万人、人口の多い仙台藩にいたっては、30万人の餓死者、病死者が出たとされているが、米沢藩では、このような扶助、互助の甲斐あって、餓死は一人も出なかった。それだけでなく、鷹山は苦しい中でも、他藩からの難民に藩民同様の保護を命じている

江戸にも、飢えた民が押し寄せたが、幕府の調べでは、米沢藩出身のものは一人もいなかった、という(『小説 上杉鷹山』p603)。

米沢藩の業績は、幕府にも認められ、「美政であるとして3度も表彰を受けている

自助・互助の学校建設

鷹山は、領内の学問振興にも心をくだいた。藩の改革は将来にわたって継続されなければならない。そのための人材を育てる学校がぜひ必要だと考えた。しかし、とてもそれだけの資金はない。

そこで鷹山は、学校建設の趣旨を公表して広く領内から募金を募った。武士たちの中には、先祖伝来の鎧甲を質に入れてまで、募金に応ずる者がいた。また学校は藩士の子弟だけでなく、農民や商人の子も一緒に学ばせることとしていたので、これらの層からの拠出金が多く集まった。子に未来を託す心情は、武士も庶民も同じだったのである。ここでも、農民を含めた自助・互助の精神が、学校建設を可能としたのである。

print
いま読まれてます

  • この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    MAG2 NEWSの最新情報をお届け