20世紀の日本人は、なぜアメリカの黒人から尊敬されていたのか?

 

日本での「忘れがたい経験」

1936年、黒人運動の指導者デュボイスは、満州に1週間、中国に10日間、日本に2週間滞在して、「ピッツバーグ・クリア」紙に「忘れがたい経験」と題したコラムを連載した。

デュボイスが東京の帝国ホテルで勘定を払っている時に、「いかにも典型的なアメリカ白人女性」が、さも当然であるかのように、彼の前に割り込んだ。

ホテルのフロント係は、女性の方を見向きもせずに、デュボイスへの対応を続けた。勘定がすべて終わると、彼はデュボイスに向かって深々とお辞儀をし、それからやっと、その厚かましいアメリカ女性の方を向いたのだった。フロント係の毅然とした態度は、これまでの白人支配の世界とは違った、新しい世界の幕開けを予感させた。

母国アメリカではけっして歓迎されることのない」一個人を、日本人は心から歓び、迎え入れてくれた。日本人は、われわれ1,200万人のアメリカ黒人が「同じ有色人種であり、同じ苦しみを味わい、同じ運命を背負っている」ことを、心から理解してくれているのだ。
(同 p109-118)

さらに、この旅で、デュボイスは日本人と中国人との違いを悟った。上海での出来事だった。デュボイスの目の前で4歳くらいの白人の子どもが、中国人の大人3人に向かって、どくように言った。すると、大人たちはみな、あわてて道をあけた。これはまさにアメリカ南部の光景と同じではないか。

上海、この「世界一大きな国の世界一立派な都市は、なぜか白人の国によって支配され、統治されている」。それに対して、日本は、「有色人種による有色人種の有色人種のための国」である。

日本人と戦う理由はない

日米戦争が始まると、黒人社会の世論は割れた。「人種問題はひとまず置いておいて母国のために戦おう」という意見から、「勝利に貢献して公民権を勝ち取ろう」、さらには「黒人を差別するアメリカのために戦うなんて、馬鹿げている」という意見まで。

デュボイスは、人種戦争という観点から捉え、「アメリカが日本人の権利を認めてさえいれば戦争は起こらなかったはずだ」とした。

黒人たちは、白人が日本人を「イエロー・バスタード(黄色い嫌な奴)」、「イエロー・モンキー(黄色い猿)」「リトル・イエロー・デビル(小さな黄色い悪魔)」などと蔑称をさかんに使うことに、ますます人種戦争のにおいをかぎつけた。

アメリカは日本兵の残虐行為を理由に、「未開人」という日本人イメージを広めようとやっきになっていた。それに対して、「ピッツバーグ・クリア」紙は、ビスマーク沖での海戦で、アメリカ軍は多数の日本の艦船を沈めた後、波間に漂っていた多くの日本兵をマシンガンで皆殺しにした、本土爆撃ではわざわざ人の多く住んでいる場所を選んで、大人から赤ん坊まで無差別に殺した、さらに「広島と長崎に原爆が落とされた時、何万という人間が一瞬にして殺された。これを残忍と言わずして何を残忍と言おう」と主張した。

軍隊の中でさえ差別に苦しめられていた黒人兵たちにとって、白人のために、同じ有色人種である日本人と戦わなければならない理由は見いだせなかった。ある黒人部隊の白人指揮官は、隊の95%は戦う気力がまったくない、と判断を下した。黒人兵の間では、やりきれない気持ちがこんなジョークを生んだ。

墓石にはこう刻んでくれ。白人を守ろうと、黄色人種と戦って命を落とした黒人、ここに眠ると。
(同 p120-140)

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