日本人としての、学者としての誇り
孫文が6月にロンドンを去り、その年の11月、熊楠は大英博物館でひと騒動起こした。閲覧室で熊楠が小さなくしゃみをした所、ダニエルズという閲覧者がやってきて、口汚く熊楠を罵り、唾を吐きかけた。人種差別感情もあったのだろう。熊楠がたしなめると、それを根にもって、以来、帽子にインクをこぼしたり、いろいろな嫌がらせをするようになった。
ある日、ダニエルズが、日本が日清戦争後に手に入れた遼東半島を三国干渉で手放した事をからかうと、熊楠の顔色が変わった。自分への嫌がらせはともかく、祖国への侮辱は我慢ならない。例のどた靴でダニエルズのスネを蹴り上げ、顔面に頭突きを食らわせた。
「げぇっ!」と悲鳴を上がり、ダニエルズの高い鼻がつぶれ、血が噴き出した。「これが日本人じゃ、見ちゃれェ!」と500人ほどもいる閲覧室の中で熊楠は絶叫した。
2ヶ月間の入館停止処分が解けて、熊楠は博物館に戻ったが、1年後、またしてもダニエルズに唾を吐き、殴りかかるという事件を起こしてしまう。かくして再度の追放処分。しかし熊楠の学才を惜しむフランクス卿やダグラス卿が博物館の評議員である皇太子(のちのエドワード7世)などに嘆願して、ようやく復館することを得た。
しかし、熊楠の暴行に反感を持つ館員たちは、ダグラス部長の部屋でのみ研究を許すという条件をつけた。それをダグラスから聞いた熊楠は、静かに立ち上がって、厚意に感謝したあと、こう言い残して大英博物館を去っていった。
「僕にも日本人としての、学者としての誇りがある。それを失って、膝まで屈してまでここにとどまることはできない」
「帰るか、日本へ」
熊楠の実力を知るロンドンの学者たちは、世界最大の工芸美術館ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館や大英博物館の分館であるナチュラル・ヒストリー館での仕事を世話してくれた。
世界最高の学問の府ロンドンに住みながら、その宝庫・大英博物館への道を禁じられ、二つの博物館を掛け持ちして、なんとか糊口をしのぎつつ、残された時間で「ネーチュア」誌などへの投稿を続ける。「お前の学問は、それだけでよいのか」、そう思うと、熊楠は言いようのないいらだたしさを覚えた。
唯一の希望はロンドン大学のディキンス総長の世話で、ケンブリッジか、オックスフォードか、いずれかの大学に作られる予定の日本学講座の助教授になるという夢であった。しかし折からのボーア戦争で、どの大学も予算を切りつめられ、その望みは絶たれた。
「帰るか、日本へ」
熊楠は決心した。アメリカ放浪6年、ロンドン滞在8年。20歳で日本を出発した熊楠はすでに34歳になっていた。1900(明治33)年9月1日、熊楠を乗せた丹波丸はリバプール港を出発した。目指すは故郷・和歌山の地。熊楠はそこでまたさまざまな騒動を起こしながらも、南紀熊野の豊かな自然のなかで自由人として独自の学問を展開していく。
文責:伊勢雅臣
image by: Wikimedia Commons
『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』
著者/伊勢雅臣
購読者数4万3,000人、創刊18年のメールマガジン『Japan On the Globe 国際派日本人養成講座』発行者。国際社会で日本を背負って活躍できる人材の育成を目指す。
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