大英帝国にも屈しない。天才学者・南方熊楠が見せた「祖国への思い」

 

「最も博学で剛直無偏の人」

この頃、国立ロンドン大学総長でイギリス第一の日本通のフレデリック・ディキンズも熊楠の活躍を評価して、総長室に招いた。総長室に姿を現した熊楠にディキンスは書き上げたばかりの「英訳 竹取物語」を見せた。熊楠はすぐに原稿を読み始めたが、「ここのところはちょっと良うないなぁ…、あれっ、これはいかんなぁ」と首をふりはじめた。

ディキンズは顔色を変え、唇をふるわせて

「ミナカタ、汝の暴言、無礼であろう。日本ごとき未開国からきた野蛮人は、外国の長老に礼を尽くすことも知らぬのか」

熊楠も負けてはいない。窓ガラスをびりびり震わすような大声で、

「何を云うちょるか。日本人が礼を尽くすのは相手が正しき老人の場合だけじゃ。わが日本の文学を誤読し、そのまちがいを指摘されても反省も訂正もせず、怒鳴り返すような石頭の老人をだれが長老と思うか、紳士じゃと思うか。相手が高名な学者じゃからちゅうて、間違っちょるもんを正しいと心にもない世辞を述べたてるような未開人はイギリスにはいても日本にはおらん

この日は喧嘩別れになったが、ディキンスも独りになって、冷静に考えてみると、なるほど熊楠の指摘した点はきわめて正しい。それに卑屈きわまりない在英日本人の多いなかで、貧書生ミナカタは大英帝国の権威に臆することなく祖国の名誉のために堂々と抗議したのである。その勇気にディキンズは強い感銘を受けた。

「ミナカタは、予が見る日本人のなかで最も博学で剛直無偏の人」。ディキンズは熊楠をそう称えて、我が身の無礼を詫び、終生変わることのない親交を結んだ。

祖国を思う気持ち

1894(明治27)年8月1日、日本は清国に宣戦布告。「戦さがはじまったぞ!」。祖国の維新後の最初の対外戦争に、熊楠はじっとしていられなかった。募金名簿を作り、真っ先に署名して、食うや食わずながらも金1ポンドを投げ出した。安下宿2週間分の宿代である。そして「みんな軍資金を出しちゃれェ!」とロンドン中の日本人に募金を求めた。熊楠のあとに、駐英公使や、横浜正金銀行ロンドン支店長などが続き、79名から200ポンド近くの募金が集まった。

9月17日、黄海開戦に日本海軍が大勝利をすると、日本人40数人が集まって、祝杯を上げた。もちろん熊楠も真っ先に駆けつけて、「命やるまで沈めた船に苔のむすまで君が代は」などと妙な節まわしの都々逸をえんえんと唸って、皆をしらけさせた。

ロンドン暮らし6年目の1897(明治30)年3月16日、熊楠は東洋部図書部長ダグラス卿の部屋で、支那の革命闘士・孫文を紹介された。孫文は清国政府打倒に失敗し、日本、ハワイ、アメリカを経由してイギリスに亡命してきた所を、清国公使館に捕まってしまった。ダグラスらは英国の世論を盛り上げ、孫文を釈放させたのであった。

同い年の二人は意気投合して、大英帝国の正面玄関で話を弾ませた。「ミナカタ、あなたの一生の所期(志)は?」と孫文に聞かれた熊楠はこう答えた。

「ねがわくは、われわれ東洋人は、東洋の国々にいる西洋人をことごとく国境の外に追放したきことなり」

周囲のひしめく英国人をものともせずにこう言い切る熊楠の大胆な言葉に孫文は青くなりながらも、心ふるえるものを覚えた。満洲王朝下で、西洋諸国に半植民地とされた支那4億の民を救う事が孫文の志であった。学問と政治と、道は違えど、それぞれの祖国を思う気持ちには通じる所があった。

意気投合した二人は毎日のように会っては語り合った。そして有力な日本人に孫文を紹介しては革命のための援助を依頼した。

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