命がけでユダヤ人を守り抜いた日本海軍大佐・犬塚惟重の半生

 

栄達の道を投げうって

陸軍でのユダヤ問題の第一人者・安江仙弘(やすえのりひろ)大佐に対して、犬塚大佐は海軍の第一人者であった。そのユダヤ研究は海軍内でも着目され、首脳部から命ぜられて、1928(昭和3)年からは大使館付き武官補佐官としてパリに駐在して、ユダヤ社会での見聞を深めた。1930(昭和5)年12月に帰国してからは、軍令部で防諜、思想戦、ユダヤ問題の統括を任され、言論界の指導層に対して、「ユダヤ民族には共産主義者や米国での反日主義者もいるが、八紘一宇の精神で人道主義的平和主義的に転向させるべき」と説いた。

昭和13(1938)年には、安江大佐とも協力して、関係方面に精力的に働きかけ、世界中で排斥されつつあるユダヤ難民に対しても他国人と同様の公正な取り扱いを行うという五相(首相、陸・海・外・蔵相)会議決定を実現した。

満洲・北支(シナ)方面のユダヤ工作は安江大佐が担当していたが、上海の海軍警備地区内での難民対応、ユダヤ財閥の反日運動対策、そしてユダヤ人が実権を握る米国マスコミへの工作を考えると、犬塚大佐は上海に腰を据えてユダヤ問題に専念しようと決心した。

ちょうど、人事局の方から「少将への昇進の過程として、一時、海上勤務にまわるように」という内意がもたらされたが、自分がユダヤ問題を担当することが日本にとってもユダヤ人にとってもよい、との判断から、栄達の道を投げ打ち、予備役編入とともに、上海勤務を願い出たのである。

ユダヤ居住区設定の提案

上海に居を構えて数ヶ月後、1939(昭和14)年12月21日、犬塚大佐は上海ユダヤ首脳部から午餐の招待を受けた。ユダヤ避難民委員会副会長M・スピールマンが、ヨーロッパ各国を歴訪した結果を聞く集まりであった。報告は非常に悲観的なもので、9月の第2次大戦の勃発により、パリやロンドンのユダヤ人団体からの上海への送金も途絶えてしまった。またアメリカのユダヤ人団体もヨーロッパでの大量難民救済に追われて、上海への送金もいつ停止するか分からない状態だった。

万策尽きた段階で、犬塚大佐は「一つ私からの提案がある」と切り出した。

アメリカに日本の必要物資を供給させることができれば、私はユダヤ難民に満洲国か支那の一部をユダヤ人居住区として開放し、まず試験的に2、3年にわたり、毎年約1万5,000人ぐらいの避難民を移住させる案を考えているが、皆さんはこれを支持できるだろうか?

一同は即座に賛成したが、アメリカのユダヤ勢力が国務省を動かして、日本への重要物資禁輸政策を転換させるだけの力があるかどうかは分からなかった。犬塚大佐は「国務省に対し全力を尽くして運動しますと約束すれば、日本政府はユダヤ居住区の案を好意的に考慮するだろうと答えた。

ユダヤ人居住区を求める請願

その翌々日、満洲ハルピンにて第3回極東ユダヤ人大会が開かれ、日本、および満洲帝国が人種的宗教的差別をせず各民族に平等に権利を認めている点を感謝する決議を行った。その間に秘密代表会議が開かれ、犬塚大佐の案に基づいて、日本政府にユダヤ人居住区設定の請願をし、アメリカのユダヤ人社会に協力を求める決議を行った。

大日本帝国は、…極東在住ユダヤ人に対して、八紘一宇の国是に基づき、人種平等の主張を堅持し、何らの圧迫偏見なく、大なる同情をもって保護を与え居らることは、我ら同族の感謝に堪えざるところなり。…帰るに国なき我ら同族に対し、大日本帝国の尽力により極東いずれかの方面にユダヤ民族のため、一部の地域を設定し、安居楽業の地を与えられなば、我ら全世界ユダヤ民族の幸福にして永遠に感謝するところなり。…

 

1939年12月25日
      極東ユダヤ人代表会議議長 カウフマン
大日本帝国 内閣総理大臣 阿部信行閣下 

print
いま読まれてます

  • 命がけでユダヤ人を守り抜いた日本海軍大佐・犬塚惟重の半生
    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    MAG2 NEWSの最新情報をお届け