命がけでユダヤ人を守り抜いた日本海軍大佐・犬塚惟重の半生

 

「命のビザ」の陰に

このような大きな工作の傍らで、犬塚は地道なユダヤ人保護の活動も続けていた。この年の7月26日、上海ユダヤ中でも最高の宗教一家アブラハム家の長男ルビーから、「宗教上の大問題でぜひ会っていただきたい」と電話があった。

ポーランドがドイツとソ連に分割され、ミール神学校のラビ(ユダヤ教の教師)と神学生ら約500人がシベリア鉄道経由でアメリカに渡るために、リトアニアに逃げ込んだという。そしてアメリカへの便船を待つ間、日本の神戸に滞在できるように取りはからっていただきたい、というのが、ルビーの依頼であった。

宗教上の指導者ラビと神学生を護ることはユダヤ人にとって大切なことであり、将来これらの人々が世界各地のユダヤ人の宗教上の指導者として多大の影響を及ぼすことは、犬塚大佐はよく分かっていた。

「よろしい。ユダヤ教の将来のために、さっそく関係当局を説得しよう。期待して待っていてよろしい」

大佐が胸を叩くと、ルビーは涙ぐんで「アーメン」と指を組み、伏し拝まんばかりに感謝した。犬塚大佐は外務当局に働きかけ、公式には規則を逸脱したビザ発給は認められないが、黙認はすることとなった。この情報が上海のユダヤ首脳部を通じて現地にもたらされ、神学生たちは8月中旬、リトアニアの領事代理・杉原千畝からビザを受けることができた。ただし杉原はこの「黙認」の工作を知らされず、発給規則逸脱で職を賭して「命のビザ」を書き続けたのである。

「上海は楽園でした」

この件で、感謝の印として贈られたのが、冒頭のシガレット・ケースだった。それまでユダヤ人から何一つ受け取っていなかった犬塚大佐だが、自分のイニシャルと感謝の辞が刻まれてあったので、快く受け取った。

また犬塚大佐のユダヤ人保護工作への感謝から、ユダヤ人の恩人としてゴールデン・ブックに記載したいという申し出があったが、犬塚は「私は陛下の大御心を体して尽くしているのだから、しいて名前を載せたければ陛下の御名を書くように」と固持した。

日米開戦後も犬塚大佐のユダヤ人保護工作は続いた。1942(昭和17)年1月、ナチスがユダヤ人絶滅の決定をした頃、上海ユダヤ人絶滅のためにドイツで開発したガス室を提供するという申し出があった。それを阻止したのが犬塚大佐だった、というユダヤ人の証言がある。

大戦中も「上海は楽園でした」という詩を当時の難民生活を経験したユダヤ人女性が残しているが、その楽園の守護者は犬塚大佐だったのである。

文責:伊勢雅臣

image by: Shutterstock , Wikimedia Commons

 

Japan on the Globe-国際派日本人養成講座
著者/伊勢雅臣
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