隠し子から大出世。江戸の知られざる名君・保科正之の数奇な運命

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徳川秀忠が側室に産ませた実子でありながら、自身の身の程をわきまえ一途に「仁政」を行った名君・保科正之(ほしな・まさゆき)。今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』では、周囲からの愛情に包まれた保科正之の半生と、徳川家の繁栄と領民の幸せを願って打ち出した「政策」の数々を紹介しています。江戸の平和の基礎を作り上げた影の立役者・保科正之とは、一体どのような人物だったのでしょうか?

保科正之 ~清冽なる名君

信州高遠(たかとう)藩3万石の小大名・肥後守(ひごのかみ)保科正之が徳川第2代将軍秀忠が側室に生ませた子だという事が知れ渡ると、いまのうちに正之に取り入っておこうと、近づいてくる大名があらわれた。

「お上(3代将軍家光)とこなたさまとが血を分けた間柄におわすことは、まことに祝着。それがしから御老中がたに働きかけ、早う天下にこれをあきらかにするよう進言いたしてもようござる」

「お志は、まことにありがたく存じます」と正之は慇懃に礼を述べつつ、

「しかし、それがしは幼くして高遠保科家に養子入りし、それがしをこよなく慈しんでくれた先代の死にともないまして家督を相続いたした者。これすなわち台徳院(秀忠)様の台命(将軍の命令)によりましたるところなれば、いまさらいらざることをお上に申し出てご迷惑をおかけするのもいかがかと存じます。されば、お気持ちのみ頂戴つかまつります」

ついに自分の子供と世間に認めることなく逝った父・秀忠を恨むことなく、その遺志に義理立てし、また自分を受け入れてくれた高遠保科家への感謝を忘れず、かつ、言い寄ってくる人々にも恥をかかせない、という、心配りをする正之だった。

家光と正之

ひょんな事から、正之が自分と血を分けた異母弟であることを知った家光は、素知らぬふりをしてその観察を続けた。弟というだけでつけあがるような人物では政道の障りになりかねない。現に家光の実弟・忠長は増長して、百万石か大阪城を欲しいと父・秀忠に要求して、その勘気に触れ、蟄居を命ぜられていた。

しかし、正之の素行を見ていると、これはいずれ徳川の天下を支えてくれる器量の持ち主なのでは、と家光は思い始めていた。そこでさらに正之の人物を見るために、老中を通じて秀忠の廟地の建設を命じさせると、「それはまことでござりますか」と目を見張って尋ね、「ありがたくお受けします」と答えた時には、感激のあまり目を潤ませていた、という。正之は自ら毎日、工事を熱心に監督し、予定通り廟地を完成させた。

ついで、家康の17回忌の法要に、日光までの供奉を命じた。取り巻きも少ないので、頃合いを図って、自らの素性を打ち明けるかと思ったが、正之は身分通りの席に大人しく控えているだけであった。その奥ゆかしさに家光は感じ入った。

江戸城内で大名たちがいならぶ部屋のそばを家光が通ると、正之は敷居際の末席に座り、おとなしく年長者たちの話に耳を傾けている。家光が聞こえよがしに「肥後正之の上座につける身でもあるまいに」とつぶやいてみせた。その話はたちどころに広まり、次に正之が登城して、いつもどおり末席につこうとすると、大名たちは慌てふためいて、「肥後殿、もそっとこちらへ」と上座に差し招く。それでも正之がにこやかに遠慮して末席を動かずにいると、大名たちはぞろぞろとその下座に移り、部屋はからっぽなのに廊下にばかり人があふれるという珍妙な光景になってしまった。

その後しばらくして家光が、品川の馬見場で諸流の馬術を見ようと、旗本たち40~50人を従えて中央の席についた。つと家光は立ち上がって、大きな声を出した。「保科肥後守は、まいっておるか」。右端の最後列にいた正之は「ここにおりまする」と静かに答えて立ち上がった。将軍が満座の中で特定の個人に呼びかけるのは、きわめて異例のことであった。

「おお、さようなところにおったのか。そこでは、ちと話が遠い。余の座敷がまだあいておるから、これへまいれ」。家光は正之を自分の弟と認めたことを満座の中で示したのだった。

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