隠し子から大出世。江戸の知られざる名君・保科正之の数奇な運命

 

仁政こそが、国力を充実させる

異母弟と公式に認められてから、正之は将軍・家光に順調に引き立てられていった。寛永13(1636)年には出羽国最上山形20万石へと移封された。奥州の押さえとして期待されたのである。さらに寛永20(1643)年にはさらに加増されて会津藩23万石に移された。この地で、正之の仁政が花開いていく

正之は豊作の年に、年貢米とは別に米を7,000俵ほど買い上げて「社倉」を設けた。これは飢饉の時に、民を飢餓から救うための備蓄である。また火事で焼け出されたものや、領外からきた農民、新田を開発した農民にも、社倉米を分け与えた。社倉が充実してからは、会津藩では飢饉の時にも餓死者を出すことはいっさいなくなった

前藩主の残した悪政の一つに「負わせ高」があった。工作不可能な土地まで田畑と見なして年貢を課すのである。正之はこの税を即刻廃止するよう命じた。2万石の減収が予測されたが、そんな事は構わなかった。しかし、この通達が各村に伝わると、農民たちは喜びのあまり、それまで藩に隠していた田畑をつぎつぎと申告し、その年貢も納められるようになって、逆に3,000石以上の増収となった。「ひたむきな心で接すれば領民たちも心を開いてくれるものだな」と正之は感じ入った。

正之はさらに村々で孝子を表彰しては褒美をとらせ、90歳以上の老人にはすべて十二分に食べていけるだけの扶持米を支給した。これは日本で最初の養老年金制度である。勤勉に働いていれば、飢饉の不安なく暮らしがなりたち、また年取って働けなくなっても気兼ねなく長生きできるようになった。村々には白頭の老人の姿が目立ち、寿命の伸びが感じられるようになった。

食い詰めて離村するものもいなくなり、赤ん坊の間引きという悪習も禁じたために、慶安元(1648)年に11万人あまりだった会津藩の人口は急増していき、70年後には17万人近くに達することになる。仁政こそが国力を充実させる源であることを、正之は証明していった。

「肥後殿は、さすがにお上の実の弟君。近ごろ希な名君かも知れぬ」という声が、諸大名から聞こえるようになっていった。

第四代将軍・家綱の補佐役として

江戸にあっては、正之は将軍家光の補佐役として、幕政を支え続けた。慶安4(1651)年4月、家光が50歳にもならないのに、急に病に倒れると、正之は臨終の床に呼ばれた。

「ひ、肥後よ。弟よ。大納言(次期将軍・家綱)はまだ11歳じゃ。そちに、頼みおくぞ」

声涙下る思いで、正之は答えた。「その儀におきましては、どうかお心安んじて下さりませ。」

「ああ、それを聞いて、余は安心いたした」

こう言うと家光の呼吸は急に切迫し、しばらくして息を引き取った。この時から正之は第四代将軍・家綱の後見役として、幕政の中心人物の一人となり、家綱政権の3大美事と言われる末期養子の禁の緩和殉死の禁止大名証人制度の廃止を政策として打ち出していった。

末期養子とは、大名が跡継ぎを定めないまま急死した場合、死後に養子届けをして家督を相続する事である。それまで末期養子が禁止されていたために藩がお取りつぶしとなり、それが大量の牢人発生の原因となっていた。正之はこれを50歳までの者には、死亡後の養子縁組を許し、家督相続を認める事とした。

また大名証人制度とは、諸大名から正室や長男を人質として江戸に住まわせるという非人間的な制度である。殉死の禁止とあわせて、正之の政策の根底には常に暖かいヒューマニズムが流れていた。

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