隠し子から大出世。江戸の知られざる名君・保科正之の数奇な運命

 

憎しみと慈しみと

正之は慶長16(1611)年、今の浦和宿の近くで生まれた。母お静は将軍・秀忠の寵愛を受け、身籠もったが、正室・お江与の方の脅迫に耐えきれずに、大奥を逃げ出して、尼・見性院のもとに匿われていたのだった。見性院は武田信玄の次女で、かつてお静が女中奉公をしていた大うばさま(秀忠の乳母)の古い友人であった。

正之が生まれた事を知らされると、秀忠は松平家の一字をとって「幸松」と名付け、見性院の子として育てるよう命じた。江戸城に引き取ったら、お江与の方に何をされるか分からない、と思ったのであろう。その後、お江与の方が老女を寄越して、脅迫めいた事を伝えたが、見性院は「たとえ御台様お江与の方のおとがめがありましょうとも幸松は我が子」と堂々と突っぱねた。

幸松が7歳を迎えた頃、女手だけでは武士としての躾ができないと、見性院はかつての武田家の武将・保科正光に幸松の養育を頼んだ。律儀な保科正光は武田家が滅び、徳川家に召し抱えられてからも、かつての主君の娘として見性院に挨拶や付け届けを怠らなかった。正光は甥を養子として家督を継がせる考えでいたが、見性院のたっての願いに幸松を跡継ぎとして引き取ることとし、秀忠もそれを許した。

こうして正之は幼少の頃から、お江与の方の憎しみに翻弄されながらも、見性院や正光の慈しみに守られて育っていった。

「足るを知る」

信州高遠城に移った幸松は、武士として厳しく育てられた。厳しい冬の寒さにも、公の行事の時以外は素足で過ごし、毎朝、霜の降りた庭に裸足で踏み出して、「えい、えい」と素振りを繰り返す。

守り役としてつけられた正光の叔父・正近(まさちか)は、幸松を領内の巡回に連れ出しては民情を学ばせた。たとえば、喉が渇いて井戸の水を飲もうとする際にも、農家の庭先には馬を乗り入れてはならないという。庭先に干されている作物を馬が食べるようなことがあっては、農民のやる気を萎えさせ、藩の収入の減少となる、というのである。

井戸端に近づくと、農民が飛び出してくるが、正近はいつもそれを制してみずからの手で井戸のつるべをたぐって、水を飲んだ。農民をあごで使うのではなく、農民の気持ちの分かる藩主に育って欲しい、と正近は無言で幸松に教えていたのだった。

また城下には、あんずや梅、柿、くるみなど実のなる木が多く植えられているのは、飢饉の年のための用心である、と説いた。領民を守ることこそ藩主の使命であることを、幸松は学んでいった。

やがて幸松は死期を悟った見性院から、自らが将軍の子であることを知らされる。一時は、実の父ながら、直接に会うことすらしてくれない秀忠に怒りを持ったこともあったが、「自分は将軍家の血筋であって、本来ならばこんな草深い高遠などに生い育つべき身ではないのだ」などと思っては、見性院、正光・正近らに申し訳ないと気がついた。「足るを知らねばならない」、それは自分にとっては領民に善政を施しやがて譜代の保科家の当主として将軍家に忠勤に励むことだ、そのような覚悟が清冽なる精神を育てていった。

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