隠し子から大出世。江戸の知られざる名君・保科正之の数奇な運命

 

天下とは民あってのものなれば

正之は制度改革のみならず、江戸の都市政策にも努めた。当時、50万人と見られる人口を抱える江戸での最大の問題は水不足であった。作事奉行が、武州羽村から13里(50キロ)ほどの水路を造って多摩川の水を引く、という提案を行った。

この案に63歳になる幕府大番頭の井伊直孝が反対の声を上げた。その上水に沿って、敵の大軍が侵入してきたらどうするのか、というのである。

その下座にひかえていた正之はおだやかに尋ねた。

「掃部頭(かもんのかみ、直孝)さまの仰せはごもっともですが、ひとつだけお教えいただきけますまいか。いま、敵の大軍ということばが出ましたが、それはいったいいずれの家中を念頭に置かれてのことでございましょうか」

これには、直孝もぐっとつまった。豊臣家が大阪城に滅んでからすでに37年、江戸を狙う敵の大軍など考えにくかった

「掃部頭さま仰せのごとく、一国一城を守る小城においては堅固をもって第一とすべきでありましょう。しかしこのお城は天下の府城、将軍家の御座城でござります。その天下とは民あってのものなれば府城は万民の利便を思い日々の暮らしを安んずることをもって旨といたすべきかと存じまする」

「それならば」と直孝もさっぱりと自分の意見を取り下げた。こうして玉川上水が開削され、それから350年後の今日も東京都民に飲み水を供給しつづけている。また従来、水不足のために未開の原野だった多摩地方は、この上水により、水田耕作が可能となり、新田の数は40カ村以上に達した。

「徳川の平和」

明暦3(1657)年1月、猛火が江戸を襲った。3日2晩に渡って、江戸の町の6割を焼き尽くし、10万人以上の焼死者が出た。江戸城の天守閣もこの時に焼け落ちた。正之は自らの家屋敷を構わずに火事装束姿で江戸城に詰め、将軍の身を守った。

その最中に、幕府天領からの年貢米100万俵以上を保管する隅田川沿いの米倉に火がついたとの報が入ると、正之はすかさず「飢えたものは、火を消して米倉から米を持ち出せ。持ち出した米を取るのは勝手次第」と触れ回らせた。避難民たちが火消しに転じまた持ち出された蔵米が救助米となるという一石二鳥の策だった。

この策によって、米倉は全焼を免れた。正之は火事が収まると、難民救済のために、各地で炊き出しをさせ、さらに家を失った町民たちに再建費として総額16万両を与えた。会津藩の年収に匹敵する金額である。閣老たちから、幕府の御金蔵が空になってしまう、という声が出ると、正之は「官庫のたくわえと申すものは、すべてかようなおりに下々へほどこし、士民を安堵させるためにこそある」と説いた。

この後、正之は江戸の再建にあたって、主要道路の道幅を6間(10.9メートル)から9間((18.2メートル)に広げ、火除け空き地として上野広小路を設置し、芝・浅草両新堀の開削、神田川の拡張などに取り組んだ。江戸という当時、世界最大の都市の輪郭は、実にこの時に定まり、211年後に東京と改称されるまで、ほぼ同じ姿を保ち続けていく。

後に、江戸城の天守閣再建の提案が持ち上がったが、豊臣家の大阪城を見ても天守閣が戦さのおりに役だった験しはなく、「いまはかようの儀に国家の財を費やすべき時にあらずと反対した。江戸城の天守閣はついに再建されることなく、幕末に至る。

天守閣なき江戸城は、長く続いた「徳川の平和」の象徴である。その平和の基礎を築いたのが、正之の仁政であった。

文責:伊勢雅臣

image by: Wikimedia Commons

 

Japan on the Globe-国際派日本人養成講座
著者/伊勢雅臣
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