99%の失敗が生んだ成功。本田宗一郎「世界のホンダ」半生記

 

本田と藤沢の出会い

本田と藤沢が運命の出会いをしたのは昭和24年8月焼け跡の残る東京阿佐ヶ谷のバラック小屋だった。戦争が終わって4年、人々は貧しい中にも、復興の希望に燃えていた。

「浜松の発明狂」だった本田は「東京に出て本格的なオートバイを作りたいが金がない」。福島で製材所を営んでいた藤沢は「夢のある技術を持った男と組んでモノを売りたい」。初対面の二人は数分で意気投合し、「モノ作りは本田カネの工面は藤沢」と役割分担を決めた。藤沢はその場で製材所を叩き売って、資金を作ることを決意した。

それからの二人は、未来について夜中の12時頃まで話し込んでは翌朝7時頃から話し始めるという毎日を続ける。毎日毎日会っているのに別れる時が辛かった。こういう状態を2、3年続けたので、二人は一生の分の話をしてしまい、その後は年に数回程度しか会わなくとも、連携してやっていけた。藤沢が「おれは辞める」と言ったとき、本田がすぐにその意図を察する事ができたのも、このためである。

二人の出会いを、藤沢はこう記している。

私はあの人の話を聞いていると、未来について、はかりしれないものがつぎつぎに出てくる。それを実行に移していくレールを敷く役目を果たせば、本田の夢はそれに乗って突っ走って行くだろう、そう思ったのです。

「今にウチは世界一の二輪車メーカーになる」

翌25年3月、藤沢の出資を得て、ホンダは東京に進出、八重洲に粗末な営業所を設けた。26年に大卒で入社した元副社長・川島喜八郎は、ホンダというオートバイを作っている面白そうな会社が営業マンを募集していると聞いて、浜松まで出かけた。作業服を着て、どう見ても町工場の親父さん然として本田が出てきて、いきなり、今にウチは世界一の二輪車メーカーになる、と事もなげに言う。

営業希望なら東京に行って藤沢に会え、と言われて、八重洲の魚屋の隣の粗末な営業所に行った。魚屋からハエが飛んでくるので、ハエ叩きを持ちながら、藤沢は「本田宗一郎は必ず世界一になるような商品を作るだろうそれをいかに売るかが私の仕事なんだ」と言った。二人の人柄に強く惹かれて、川島はその場で入社を決めた。

その頃の本田は新しいエンジンなどのアイデアを思いつくと、工場の床にしゃがみ込んで、チョークでスケッチを描いて社員たちに見せた。既存の製品のコピーなどは絶対に我慢できず、技術者たちの設計には、「どこが新しいんだ?どこがヨソと違うんだ?」と真っ先に聞いた。毎朝の朝礼では、ミカン箱の上に立って世界一になる」。

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