99%の失敗が生んだ成功。本田宗一郎「世界のホンダ」半生記

 

ドリーム号

それまで本田は旧陸軍の無線機発電用のエンジンを自転車につけて売っていた。戦争直後、交通は混乱し、ガソリンも乏しい時代に、この補助エンジン付き自転車はよく売れた。しかしこれではスピードも遅いし、耐久力もない。どうしても本格的なフレームを持った強い馬力のオートバイを作りたいと本田は思った。

藤沢と出会った昭和24年8月、技術者たち全員の知恵を集めて完成したのがドリーム号だった。その名は、スピードにを託すという意味から本田自身がつけた。平成9年10月までにホンダは1億台のモーターサイクルを生産したが、その第一号がこのドリーム号であった。

ドリーム号は好評で、作るそばからどんどん売れた。自分が工夫したものが人に喜ばれて役に立つことに、本田は無上の喜びを感じた。

「良品に国境なし」

当時の日本製品は国際競争力がなく、産業界は政府に輸出振興と輸入制限を頼み込む状況だった。しかし、これではいずれ世界の自由化の波に飲み込まれるか、あるいは閉鎖市場として世界の進歩から取り残されるしかない。「良品に国境なし」、本田は技術を高め世界一の製品を開発すれば、だれも外国製品を輸入しようとはしないし、黙っていても輸出は増えるはずだと考えた。

世界一の製品を作るには優れた工作機械が必要だ。当時の国産の工作機械では十分な精度が出ない。のどから手が出るほど外国の工作機械を欲しがっている本田の気持ちを察して、藤沢は「社長、欲しい機械はどんどん買ってくれ」と資本金わずか6,000万円の会社で4億5,000万円もの機械を購入させた。しかし、その直後に昭和27、28年の不況が押し寄せ、藤沢は必死の資金繰りで会社を支える。

当時は外貨が貴重だったが、たとえ会社が潰れても機械そのものは残るから、国民の外貨は決してムダにはなるまい、とまで本田は考えたのである。それから7年後、輸出が100万ドルを超し輸入外貨を取り戻した時に、新宿コマ劇場を借り切り、全国から社員を呼び集めて盛大な記念式をあげた。

マン島のレースに挑戦

英国のマン島では毎年世界各国の優秀なオートバイ・メーカーが集まり、技術を競うTT(ツーリスト・トロフィー)レースが開催されていた。昭和29年3月、本田はこのレースに挑戦することを宣言した。

わたしの幼き頃よりの夢は、自分で製作した自動車で全世界の自動車競争の覇者となることであった。…

日本の機械工業の真価を問い、此を世界に誇示するまでにしなければならない。吾が本田技研の使命は日本産業の啓蒙にある。ここに私の決意を披瀝し、TTレースに出場、優勝するために、精魂を傾けて創意工夫に努力することを諸君とともに誓う。右宣言する。

TTレースへの挑戦は二つの意味があった。ひとつはこのレースで優秀な成績を得ない限り、世界のオートバイ市場をイタリア、ドイツなどから奪い取ることは不可能であり、輸出振興の念願は達成できないこと。もう一つは、敗戦直後の日本人に希望を与えた水泳の古橋広之進選手のように、技術でグランプリをとれば、日本人としてのプライドを持たせることができる、ということであった。

宣言の3ヶ月後、本田はマン島で実際のレースを見てびっくりした。ドイツやイタリアのオートバイはホンダと同じクラスのエンジンでも3倍もの馬力を出す。しかしすぐに持ち前の負けず嫌いが頭をもたげる。外国人がやれるのに日本人ができなはずはない。帰国後すぐに研究部を設けて、徹底的に研究を進めた。

5年におよぶ研究の結果、昭和34年125ccでレースに初参加。初陣は6着に終わったが、36年にはTTのグランプリレースに優勝最優秀賞を獲得したほか、スペイン、フランス、西独各地のグランプリ・レースでも優勝。ここに世界一のオートバイを作り上げるという念願を遂げることができた。

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