国交省も口説き落とした「朝獲れ」鮮魚の仕掛け人
早朝の長崎県対馬。漁船の上には野本がいた。野本は全国を飛び回り、契約している漁師の船に年間100日、乗っているという。「船の上で魚の品質の8割は決まる。どんなすばらしい冷蔵設備だとか、すばらしい氷を使っても、元がダメだったらダメ」だからだ。
この日乗り込んだのは、羽田市場が開設した当時から取引している久保幹太さんの船。定置網にかかっていたのは最盛期を迎えたスルメイカだ。
体が柔らかく傷がつきやすいスルメイカは、網で少しずつすくって漁船に移す。漁師さんが道具で口を引っこ抜いた。「イカがかたまっていると、墨を吐いてイカ同士がかみ合って傷だらけになる」(久保さん)からだ。イカに傷がつくと売値が下がってしまう。少しでも価値を上げるために、野本と一緒に考えた方法だ。
野本も同じ作業を同じように行う。年間の3分の1をこうやって過ごすことで、漁師たちの信頼を得てきた。
野本は1965年、千葉県船橋市で4人兄弟の末っ子に生まれた。実家は業務用の食材を問屋から仕入れて卸す二次問屋。高校を卒業後、家業を手伝ったが、「街中のレストランや給食センターに食材を納める業者でしたが、上に一次問屋がいて、二次問屋は一次問屋から仕入れた商品を売るので、非常にジリ貧な会社でしたね」(野本)と言う。
40歳を過ぎて千葉県内の回転寿司チェーンに就職。この時、千葉の房総で揚がった魚をその日のうちに出す「朝獲れ魚」のアイデアを思いつく。しかし、「忙しいチェーン店だったので、『朝獲れ』の魚が夕方に届いても、古いネタから順に売るという習慣もあって、そこではうまくいきませんでした」(野本)。
2年後には、「塚田農場」など様々な業態の居酒屋を展開するAPカンパニーにヘッドハンティングされる。野本がここで立ち上げたのが鮮魚居酒屋「四十八漁場」。売りは全国の漁港で揚がった新鮮な魚。「朝獲れ」の魚を提供する羽田市場の原形となった店だ。
この成功の鍵を握ったのが鮮魚の仕分け場。全国の魚を一箇所に集めることで、各店舗により早く配送する新たなビジネスを生み出した。
その仕分け場は羽田空港から7キロという場所にあった。しかし、これだと空港で魚をピックアップし仕分けするまでに2時間かかった。もし空港の中に仕分け場があれば効率は飛躍的に上がる。野本は新しい流通システムを作るべく、所管の国土交通省に掛け合うが、最初は門前払いされたと言う。
「地方創生の第一歩は、地方のいいものをいい状態で東京に持ってきて高く売ること。何回も説明にあがって……」(野本)
交渉を始めてから1年あまり、野本はついに国交省を口説き落とした。羽田空港内に「羽田市場」の開設を成し遂げたのだ。
客が漁師さんを指名?こうして漁業を活性化する
国交省の他にも野本が口説き落とした人たちがいた。漁師さんたちだ。
宮崎の漁師、古谷哲啓さんはいち早く契約をした一人。最初は疑っていたが、一緒に酒を飲んで「信用できると思うようになった」という。
「『古谷さんも儲かって、私も儲かって、それがウィン・ウィンだ』と、この人はうまいことを言うなと思って、それなら一緒にやろうということになった」(古谷さん)
時には朝まで酒を酌み交わすことも。野本は徹底した現場主義で、およそ300人もの漁師を口説いてきたのだ。
秋田県男鹿市。ここにも新たに羽田市場と契約を結んだ漁師がいる。三浦幹夫さんは元海洋高校の教師で、退職後、2年前から漁師になった。
「私が勤務していた海洋高校の卒業生でも漁師になるのは数パーセント。男鹿市は高齢化が進んでいるので、対策を練っていい方向に持っていければと常々思っていました」(三浦さん)
秋田県の漁師はおよそ1000人。その半数以上が65歳以上の高齢者だ。自分がもっと稼いでみせれば、若い漁師も増えるかもしれない。そんな思いから三浦さんは契約した。
漁法はキラキラした疑似餌、ルアーを使った曳縄釣り。獲れる量は少なくなるが、この方法なら魚が傷つきにくく高く売れる。この日はイナダとサワラ、合わせて15匹が獲れた。獲った魚はその場で血抜きし、神経締めもやっておく。
5時間後の羽田空港。三浦さんが最初に送ってきた魚が届いた。野本の評価は「血が抜けているので色も白い」「純粋にイナダの味。身の味がしっかりと感じます」と、申し分なし。さっそく三浦さんに電話をかける野本。最初の出荷の際に、野本は必ずその魚をチェックし、結果を漁師に伝えるのだ。
「漁師は全国に16万人いるが、その8割は三浦さんのような個人でやっている人。評価してくれる客が『この漁師のこの魚がほしい』となれば、どんどん値段は上がる。漁師さん同士が切磋琢磨して勝負してほしい」(野本)
「羽田市場に出荷して魚にはっきりした値段がつけば、『それじゃあ我々もやろう』と絶対になります」(三浦さん)