台湾人は忘れない。命を落としてまで台湾に尽くした5人の日本人

 

現在も稼働する水力発電所と3人の殉職碑

台湾の南部は急峻な山々が聳え、多くの急流があることから、水力発電所が多数作られた。台湾の水力発言所は大半が日本統治時代に建設されたもので、今も11カ所が現役であるという。

高雄県の美濃(みのう)という小都市には、市街地から約6キロ離れた所に、竹子門(ツーツーメン)発電廠と呼ばれる水力発電所がある。明治42(1909)年、台湾では二番目、南部では最初に設けられた発電所である。

発電所の建物は日本統治時代からほとんど変わっていないという。内部の設備も、戦前からのものだ。発電機はドイツから輸入されたもので、現在も動いている。

発電所の構内には3人の殉職した日本人職員の石碑が残されている。傍らの解説板によると、上利良造は明治43(1910)年、触電により殉職。青柳義雄は昭和2(1927)年に病死。山中三雄は水路に誤って転落、殉職し、昭和12(1937)年に碑が建てられた。

これらの石碑はいずれも工員たちによって建てられ守られてきた。保存状態は良好で、大切にされている様が窺い知れる。

片倉氏に案内役を申し出てくれた古老は、「職務に対する真摯な至誠は何人たりとも否定できません」と静かに語った。そして「技術者というのは、そういった精神を何よりも大切にする人種です」と続けた。この老人もまた、台湾の山林を駆け巡った水道技師である。

なお、台湾の急峻な河川は、渇水時には水量が不足して、流域は水不足になる。以前は、この一帯も水不足に悩まされていたが、発電所が出来てからは、その水を灌漑用水として安定供給している。現在もここからの灌漑用水が利用されており、美濃は台湾でも指折りの農業地帯となっている。

「この電話は今まで一度も壊れたことがない」

台湾東北部を走る平渓線は、全線にわたって渓谷が続き、車窓の美しさで知られている。平日こそ閑散としているが、週末は行楽客で結構な賑わいとなる。

この路線は、一帯の炭鉱を経営していた台陽鉱業株式会社によって大正10(1921)年に敷設され、沿線で採掘される石炭の運搬に使われていた。昭和4(1929)年に台湾総督府に買収され、官営となった。

終着駅である菁桐(せいとう)は、かつてはいくつかの炭鉱があり、多くの坑夫が集まって、賑わっていたという。片倉氏は1997年にここを訪れた。

駅舎は昔ながらの木造和風建築だが、大きく庇(ひさし)が張り出して日陰を作り、また待合室には扉をなくして風通しを良くしていた。片倉氏が来訪記念に乗車券を買い求めると、助役らしい初老の駅員は、日本人が珍しかったのか、駅長室に招き入れてくれた。

案内された駅長室はまさに日本の地方駅の雰囲気であった。黒光りする大きな金庫には「大正13年製造」と刻まれたプレートが嵌め込まれている。

埃をかぶった昔ながらの鉄道電話もあった、これも日本統治時代からのものだという。別の駅員が古電話を優しくさすりながら、小さな笑顔を見せた。そして、「この電話は今まで一度も壊れたことがない」と、あたかも自分のものであるかのように胸を張った。

「お医者さんはハルヤマ先生という方でした」

10年後に片倉氏は菁桐駅を再訪した。列車が駅の構内に差し掛かる直前に、線路沿いに朽ちかけた木造家屋を見つけた。片倉氏は線路伝いに歩いて、そこに向かってみることにした。近づいてみると、それはまさしく廃墟だった。柱は折れ、天井は抜け落ちている。

通りがかった老婆に声をかけてみると、ここは日本統治時代の診療所だったという。

老婆は当初、突然の日本語に緊張した表情を見せたが、しばらくすると、「お医者さんはハルヤマ先生という方でした」と教えてくれた。「よく覚えていますね」という私の言葉に、老婆は当然といった面持ちで、「お世話になりましたから、忘れません」と答えた。このやりとりを境に、私たちの会話はすべて日本語になった。

 

老婆の日本語は、当初は若干のたどたどしさを含んでいたが、話しているうちに流暢になってきた。小学校を卒業する前に終戦を迎えたというので、日本語による教育はわずか数年間ということになる。

 

しかし、両親や兄弟が日本語を常用していたため、家庭内で戦後も日本語との接点が保たれた。老婆は今もNHK衛星放送で大相撲やのど自慢を観るのが何よりもの楽しみだと笑っていたが、突然真顔になって、「一度でいいからのど自慢を台湾でやってくれないものかね」と迫られた。
(同上)

ハルヤマ先生は終戦で日本に引き揚げ再びこの地を訪れることはなかった。そしてそれから60年以上の歳月が過ぎ、小学生だった少女は、齢80に手が届く老婆になった。

彼女にとっての「日本」は、多くの台湾の老人たちと同様、終戦を機に封印されてしまった。それでも、若き日々の思い出は決して色褪せることがない。老婆はしばらくして「もうきっと亡くなっているでしょうね」とつぶやいた。
(同上)

発車の時刻が迫り、片倉氏が慌てて列車に乗り込むと、警笛がなって、ディーゼルカーは菁桐駅を離れた。窓の外を見ると、孫を抱いた老婆が手を振っていた

現在もこの木造駅舎は健在だが、最近の行楽ブームを受けて、ここにも多くの行楽客が訪れるようになっている。

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