伝説の箱根山戦争~小田急が挑んだ秘策とは?
戦前の箱根は富裕層の別荘地。まだゴールデンコースもない不便な場所だった。現在のような観光地に変貌を始めるのは1950年代。それは箱根のバス路線を巡る、企業間の争いがきっかけだった。
1社は小田急。そしてもう1社は西武だ。この小田急と西武の争いは箱根山戦争と呼ばれ、訴訟問題にまで発展した。そんな両社の攻防を目撃した「きのくにや旅館」の川辺ハルト社長によれば、「まさに観光客を奪いあっていた」という。
10年にもおよぶ争いのすえ、小田急は1960年、西武のバス路線の真上に芦ノ湖へ抜けるロープウェイを開通させ、現在のゴールデンコースを完成。西武との争いに終止符を打ったのだ。
そんな格闘の末に小田急が掴み取った箱根に4月、ある若者の集団がやって来た。観光かと思うと、何やら必死でメモをとり始めた。彼らは今年入った小田急の新入社員。箱根の魅力を叩き込むため、ゴールデンコースの周辺をくまなく回る研修だった。
もう30年以上も続く取り組みで、夜は泊まり込み、自分なら箱根の魅力をどう伝えるか、グループでレポートをまとめていく。
「小田急の社員として、箱根がすごく重要なことを理解してもらいたいですし、その大事さを若いうちから認識してもらいたいと思います」(研修センターの北野麻衣副所長)
競い合いながら育ててきたかけがえのない箱根を、また新たな人材が磨いていく。
複々線化も来年完成~大胆な挑戦が道を切り拓く
小田急はかなりの挑戦を繰り返してきた会社である。その代表が、大切に保管される伝説のロマンスカー。新幹線もまだない1950年代に作られた「ロマンスカーSE」だ。
「これを作るために試作モデルを100以上作り、空気試験から導き出されたのがこの流線型だったんです」(小田急電鉄・瀬下順次)という。車体の曲線は、新幹線のルーツとも言われるほど斬新なものだった。
小田急は大胆な挑戦こそが道を切り開くと、創業以来、信じてきた。
その小田急が今、壮大な挑戦をする舞台が下北沢駅。その地下へ伸びる4本のトンネルの先で進んでいたのは、下北沢駅の地下に2階建ての線路を掘り、線路の数を倍の4本に増やすという大掛かりなプロジェクトだった。
小田急全線を監視する指令センターに、ラッシュアワーの8時前、緊迫した空気が張り詰める。この時間に走っている列車は1時間に27本。まさに超過密ダイヤだ。列車を正常に運行させるための攻防がここで繰り広げられている。
沿線人口が増え、年間7億人を運ぶ小田急は長年、限界の混雑状況で運行してきた。その状況を根本から解決するため、30年前に始まったのが複々線化工事だ。思い切って線路を倍に増やすという大胆な作戦。すでに下北沢以外の区間は完成し、来年の開業を控えている。
長年の課題にも、小田急は大胆な投資で挑んでいる。