台湾を救った奇跡のダム。台湾人が尊敬する「もう一人の日本人」

 

農業土木技術者として尽くした30年

信平の活躍は、地下ダム建設と農地開拓だけに留まらなかった。新しい農場では地下水の排水にも細心の注意を払ってサトウキビの根腐れ病を防いだため、収穫高がさらに増加した上、土壌水分をコントロールすることによって、糖分が大きく上昇することが分かった。

また移住してくる農民が乾期にサトウキビを栽培しながら、雨期には自家用の米を自給自足できるようにし、さらに余った水量は芋などの雑作用の畑に回すようにして、2年および3年輪作を取り入れた。そのために、それぞれの作物別に必要な水量を正確に算出した。

信平が実施した輪作法を研究してさらに大規模に綿密に実施したのが、東洋一の烏山頭ダムを建設し、嘉南平野の100万人の農民を豊かにした八田輿一である。

信平は昭和13(1938)年、眼病のために『台湾精糖』を55才で退職した。25年間の在籍中に、約60カ所の水利施設と3万ヘクタール以上の農地を改良した。

退職後、東京に戻ったが、土地改良の経験と知識を買われて、昭和16(1941)年に設立された『農地開発営団』の副理事長に就任し、戦時中の食糧自給と増産を目指して、阿武隈川上流などの開墾作業に努めた。

終戦後は、満洲・朝鮮など世界各地から約630万人もの民間人、軍人、軍属が引き揚げてきたが、信平は海軍省の復員兵を受け入れる信州の野辺山開拓村の開設を担当した。

その仕事の最中、昭和21年2月14日、脳溢血で倒れ、翌日、帰らぬ人となった。享年63。31歳で台湾に渡って以来、30年以上も農業土木技術者として世のため人のために尽くした人生であった。

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