あの日、私は北京上空にいた。元国際線CAが空から見た天安門事件

 

北京空港に到着するやいなやゲートにいた人たちが次々と機内に流れ込んできました

額から血を流している人、日本の国旗に身を包んだ人、飛行機に乗り込むなり声を上げて泣き出す人、泣き叫ぶ子どもを固く、とても固く抱きかかえる若い母親……、みんなみんな戦火を逃れ必死に逃げてきた方たちでした

中には「ありがとう、ありがとう。迎えてにきてくれてありがとう!」と私の手を握ったまま放さない方もいました。

北京を離陸した途端機内はうわぁ~~~と安堵の声で埋め尽くされ、やっと「もう大丈夫」と安心できたことで閉じ込めていた“恐怖の蓋”が開いたのか、

「殺されるかと思った」

「必死で逃げてきたんです」

「日本領事館の人から“コレ(日本の国旗)”渡されて、助かりました!」

「自分たちは日本人だ!攻撃しないで!と大声で叫んできました」

などなど、まるで「恐怖を和らげるには、言葉を吐くことが最善である」と、誰かから教わったかのごとく、みんながいっせいに話し始めました。

その後は、みなさん落ち着きを取り戻し、お食事後はほとんどの方が、ぐっすりお休みになっていました。

ただ、怪我をしている人がいたので、ギャレーで手当をしたり、痛み止めを持っていったり……。

座る間もなくずっとお客さまのケアをしていたと記憶しています

羽田にランディングしたときは、機内は拍手で包まれ、ボーディングブリッジにはメディアのカメラが何十台も待ち構え、フラッシュの嵐にビビったことは覚えているのですが、どんな反省会をし、どんな気持ちで自宅に戻ったのか…まったく記憶にないのです。

ただ一つだけ鮮明に覚えているのが、そのときに先輩から言われた言葉です。

国際線のCAというのは世界の歴史的瞬間に立ち会う事がある職業ですそれに見合うだけの人物になるべく自分を高めなさい」と。

確かにその後は、ソ連崩壊、ゴルバチョフ失脚、湾岸戦争などなど……いろいろとありました。この辺の裏話は、またの機会にお話しますね。

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