米国育ちで元ANA国際線CA、さらに元ニュースステーションお天気キャスターからの東大大学院進学と、異例のキャリアを持つ健康社会学者の河合薫さんのメルマガ『デキる男は尻がイイ-河合薫の『社会の窓』』。今回は、先日亡くなった中国民主化運動の象徴・劉暁波氏を偲び、河合さんがCA時代に搭乗した「天安門事件の救援機」における貴重なエピソードを紹介しています。
劉暁波と空の上から見た北京
先日、中国の民主化運動の象徴的存在で人権活動家の劉暁波氏が、61歳で死去しました。
劉氏と聞いて真っ先に思い浮かべるのが「天安門事件」ですが、最近は「天安門? 天津飯みたいなもんですか?」なんてことを平気で言う若者がいるみたいですから、ずいぶんと昔のことになってしまいました。
私ったら、結構な年月、働いてしまっているのね……。
なんてことをしみじみと感じている次第です。
だって、私にとっての天安門事件は、「CAの仕事」がどういうものなのか?を痛感させられた出来事で、あのときの経験が「国というもの」について考えるきっかけになったといっても過言ではありません。
「すぐに羽田に出社せよ。救援機に乗務してください。」ーーー。
そうなんです。天安門事件が勃発した翌日、日本政府が北京に滞在する日本人を救出するために救援機を出すことになり、自宅スタンバイ(欠員補?要員として自宅で待機する勤務)だった私は、会社(ANA)から乗務を命じられたのです。
当時の私はピカピカの一年生。
羽田出社も初体験(国際線は成田オンリーだったので)、救援機も初体験、自宅スタンバイから乗務を命じられるのも初体験……etc etc 何から何まで“初体験”だらけでした。
救援機はANAの767を利用。乗務員は12、3名だったと記憶しています。
羽田をカラで離陸し、機内には乗客の方にサービスするお弁当を搭載。
クルーは私も含めみな緊張気味でしたが、それでも北京上空まではチャーター便のような気分でした。
そんな気分を吹き飛ばしたのが、飛行機の窓からたくさんの炎。
見慣れた北京の町並みの、あちらこちらに炎が広がっていたのです。
天安門前の長安街で、事件を鎮圧するために現れた何台もの戦車の車列の前に立ち、行く手を遮った男性の映像は、その後「無名の反逆者」(the Unknown Rebel)と呼ばれ、世界中のメディアが報じました。
おそらく私が見た炎の中には、戦車から発射されたものも含まれていたはずです。
中国政府はいまだに天安門事件の被害者の数を明かにしていませんが、かなりの数の民間人が犠牲になったことは明白です。
それは飛行機に乗り込んできた乗客の姿からも、容易に想像できました。