ロス五輪金メダリスト山下が柔道を通して取り戻したい日本の誇り

 

史上最強の柔道家とも言われ、引退後も指導者として類稀なる才能を発揮し、後継者の育成に力を注ぐ山下泰裕氏。どうやら彼の強さは「力」だけではないようです。今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』では、同氏を始め、オリンピックで名を馳せた選手たちの人間力にスポットを当て、その能力の高さを紹介するとともに、勝利至上主義に走る愚について記しています。

山下泰裕~柔の道の人作り

1980(昭和55)年8月、ロサンゼルス・オリンピックの柔道無差別級で金メダルをめざす山下泰裕は順調なスタートを切った。セネガルのコーリー選手を27秒で仕留めた。

しかし、続く2回戦、西ドイツのシュナーベル戦で大きな試練が待ち受けていた。腰の引けている相手に体を寄せ、内股をしかけようとした瞬間に、右ふくらはぎが肉離れを起こしたのだ。

試合は続いている。山下は平静を装ったまま、シュナーベルが背負い投げにきたところを潰してのしかかり、送り襟絞めで「参った」をさせた。

試合後の礼をするため畳に足をつけるだけで激痛が走った。礼の後、何事もなかったように歩くよう努めたが、歩き方の異常に気がついた会場がどよめいていた。

絶体絶命のピンチ

続く準決勝の対戦相手はフランスのデルコロンボだった。今までの対戦ではすべて一本勝ちを収めている。デルコロンボは負傷した右足を狙った大外刈りを仕掛けてきたが、負傷のために反射的に引くことができず、まともに刈られて後ろ向きに倒されてしまった。

「効果」。倒れる寸前に体をうまく捻ったため、畳に背中はつかなかったので、一本負けは避けられたが、「あのヤマシタが外国人との試合で初めてポイントを奪われた」と、観客席からどよめきが起こった。

「もしかしたら、俺はここで負けるのではないか」と絶体絶命のピンチに不安と弱気が脳裏をかすめる。しかし、それを消すように自分を奮い立たせた。

俺は無様な試合をするためにここに来たんじゃない金メダルを取るために来たんだ。そのための努力はすべてやり尽くしてここに立っているんだ。この程度のけがで負けてたまるか。」

強気をとりもどして、大外刈りを仕掛ける。相手が左足を引いて、わずかに右足に重心が乗ったのを見て取ると、反射的にその右足をめがけて大内刈りを放った。デルコロンボが畳にころがった。「技あり」。

そのまま横四方固めで抑え込み、合わせ技で一本勝ち。勝つには勝ったが、右足の状態はさらに悪化した。

国民の熱狂

決勝戦の相手は、エジプトの巨漢ラシュワンだった。身長192センチ、体重140キロ。山下よりも二回りも大きい。決勝までの試合をすべて一本勝ちで勝ち上がってきた。山下は戦う覚悟は決まっていたが、いつもなら必ず浮かぶ勝利のイメージがまったく湧いてこない。

試合が始まると、二人は畳の中央でがっちりと組み合った。先に仕掛けてきたのはラシュワンだった。けがをした右足を攻めてきたので、とっさに引いてかわすと、すかさず左足に狙いを変えて払い腰に来た。

そこから数秒間は記憶がないが、気づいた時にはラシュワンを抑え込んでいた。横四方固めで、主審が抑え込みのコールを発し、試合開始後1分5秒で、長いブザーが鳴り響いた。「1本」。

後でビデオを確認すると、山下は左足を開いてラシュワンの払い腰をかわすと同時に、本来の軸足ではない左足を軸にしてラシュワンを投げていた。これまでの柔道人生では、考えたこともない動きだった。「無の境地」だったのかも知れない。

帰国すると、日本中が熱狂していた。金メダル確実と思われていた山下が試合中に大きな怪我をして、はじめて外国人選手に投げられたのだ。それを乗り越えての金メダルだった。

怪我をしなかったら、何の波乱もなく金メダルをとり、「山下? ああ強かったね。でも、まあ当然じゃない」という反応で、すぐに忘れ去られていたろう。

山下の生涯戦績は559戦528勝16敗15引き分け。世界選手権3連覇、連勝記録203。対外国人選手無敗という輝かしいものだが、その記録よりも、この最大のピンチを乗り越えての金メダルは人々の心に残るものとなった

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