9月18日の報道ステーションで元共同通信社編集局長・後藤謙次氏は「何もやっていない」と批判します。8月の内閣改造以降ということですが、安倍政権はその前から起動していて、大方針は安倍首相ら中枢が決め、主要閣僚は概ね固定されています。
また、評論家の石平氏もツイッターで指摘していましたが、衆議院を解散しても内閣は機能していて、むしろ、そんな状況になることを見越して「仕事人内閣」を配置したとは、いささか贔屓の引き倒しにも思えますが、そういう理屈も立てることが可能です。
なにより解散総選挙が日程に乗り、三連休があけた東京株式市場は一時期400円を超える上げ幅で、日経平均株価は2万円を軽く越えて見せます。これだけでも「何もやっていない」との批判あたりません。
つまり、後藤健次氏の発言は、反対のための反対で、批判のための批判だということです。この半年間の後藤氏の発言を、左派のウェブメディアとして名高い「リテラ」より要約して紹介します。
- 「頻繁に自らの内政を推進するために東京五輪の名前を出している。これはある面で、『五輪の政治利用』と言われても仕方がない」
- 「(安倍首相の発言は)99条の憲法遵守義務に反すると指摘する人もいます」
- 「都合が悪くなるとはぐらかしたり焦点をずらしたり、あるいはヤジに対応して茶々を入れたり、その『真摯な態度がない』というところが、いまのこの予算委員会の劣化の最大の要因」
- 「森友問題というのは安倍総理にしか収束できない。誰が説明しても、誰も納得できない」
- 「いまの政権はタガが緩んだのではなくタガが外れている」
ここで紹介したのは一例ながら、テロ等準備罪については、さらにヒートアップします。
とくに私が非常に心配なのは、北朝鮮情勢の緊迫化に伴ってですね、日本全体のなかにこの「テロ等準備罪」という名称に引きずられたような法案を積極的に容認しようという空気があるということ。逆にこういうときこそ、一歩留まって、慎重に考えるべきだと思うんですね。
うん、ここまで徹底的に批判し危惧するなら、解散総選挙は政策転換を迫る最大にして唯一のチャンス。安倍政権を支持しない国民が多数になれば良いだけのこと。どうしてこんな簡単なことがわからないのでしょうか。
無知とか思考力に異常がないのなら、安全な観客席から無責任な野次を飛ばす酔っ払いの野球ファンと同じです。発言の自由を否定はしませんが、公共の電波を使い、人様に披瀝するほどの意見ではないでしょう。
さらに「大義」についてもおかしな話しです。
テレビ朝日「モーニングショー」で、玉川徹テレビ朝日社員は執拗に「大義がない」と誰彼構わず噛みつきます。まるで躾のできていないチワワのようですが、これを政治評論家の田崎史郎氏がたしなめます。
安倍首相はいまだに解散するとはいっていない。だから解散の大義が何かもわからない。それについて、いまあるなし論をすること自体が間違っている。
(要旨)
これが「忖度」というものでしょう。総理が言ってもいないことをあれやこれやと推測し、議論しているのです。
読売新聞は擁護の角度から忖度し、消費税増税分の使用目的の見直しなどを掲げていますが、いま国民の信を問うなら1つしかありません。「憲法改正」です。一票の格差を解消するにせよ、地方分権を薦めるにせよ、憲法議論は避けて通れなくなっています。そしてなにより、「自衛隊の存在を憲法に明記する」こと。次の選挙でここまで踏み込まずとも、「議論を始める」ことを掲げたならば、「大義」は余りあるほどです。
北朝鮮の危機が眼前にある今、憲法九条はどうすべきか。憲法学者の大半が、自衛隊を違憲というのなら、その違憲状態を解消する手段は2つ。自衛隊を解散するか、憲法を変えるかです。
もっとも田崎史郎氏の説を支持して、私も首相が解散を宣言して、説明が為されるまで完全な態度は留保しますが、少なくともこの5月に安倍首相が憲法改正の議論に踏み込み、その延長上で解散総選挙があるのならば、国民に信を問う大義はあります。
そして大切なことなので明記しておきます。
信を与えるも与えないのも国民の権利であり、民主主義の国の国民の義務です。マスコミやコメンテーターが決めることではありません。
image by: 首相官邸