くじけずに生きろ。日本人に大切な事を伝え続けた伝説の船「宗谷」

 

「『宗谷』に戻って、引揚輸送をしよう」

中澤松太郎は砲術学校を出て、昭和19(1944)年11月から「宗谷」に乗艦した。その頃、「宗谷」には「不沈船神話が生まれていた。艦内に祀られている「宗谷神社」のお陰とも言われていた。

しかし、砲術長の萩原左門中尉は「鬼の萩原とあだ名された猛者(もさ)」。「そんなものをあてにするな! 信ずべきは日頃の訓練のみである!」と朝晩、訓練に次ぐ訓練で鍛えられた。

冒頭の三陸沖での戦闘でも、いち早く敵潜水艦を見つけたり、爆雷で仕留めたりしているのは、そうした猛訓練の成果だろう。「不沈船」神話の陰には厳しい訓練で鍛え上げた乗組員の技量があった

終戦後、中澤は郷里の長野県の実家に戻ったが、両親から二人の兄の戦死を告げられた。「兄さんが…、そんな」と中澤は絶句した。ただ一人残った自分が両親を支えなければならない、と決心した。

9月のある日、ラジオ放送から聞こえてきたのは「宗谷乗組員は浦賀擬装事務所に集合せよ」という放送だった。海外に残っていた邦人は、軍人・民間人あわせて700万人に上り、その引き揚げのために残存していた海軍艦艇132隻が動員された。「宗谷はその中の一隻だった。

「宗谷」に戻る事は強制ではなかったが、外地に残されたままの人びとの苦しみをよそに自分だけが暖かな床についていることを、二人の兄はどう思うだろう、と中澤は考えた。長い逡巡の末、「『宗谷に戻って引揚輸送をしようと決心した。老父母の顔をまともに見る事はできないまま、故郷を後にした。

「あと少しで内地ではないか」

中澤が「宗谷」に戻ると、狭い船内も、よく揺れる足元も、全てが我が家のように思えた。しかし、1ヶ月足らずで、引揚船に仕立てなければならない。

機械類を点検し、多数の引揚者を収容する部屋を作り、食料や毛布などを仕入れる。引揚船となった「宗谷」は、日本中の留守家族の期待を背負って、10月に浦賀から出港した。占領軍の命令で、軍艦旗も日章旗も禁じられていた。

日本近海は米軍の敷設した磁気機雷が無数に浮遊していた。せっかく日本近海まで戻ってきた引揚船が機雷で沈没し、亡くなった人も多くいた。しかし、磁気機雷が国際条約に違反していることから、米軍はその公表を禁じた。

日本近海が安全に航行できるようになるまで、海上保安庁の掃海作業が多くの殉職者をだしながら、7年間続けられた。

「宗谷」がフィリピンから1,200キロほどの西方海上にあるヤップ島に到着すると、駐屯していた陸軍兵士が乗り込んできた。栄養失調のため、戦友の肩を借りて歩く者が多い。デッキに上がった途端に感極まって嗚咽する姿もあった。その光景を見て、中澤はそれまでの苦労が吹き飛ぶ思いだった。

しかし、極度の栄養失調から、米を食べて亡くなってしまう兵士もいた。その遺体を水葬に付すのも中澤たちの仕事だった。

10月24日、水平線上に富士山の姿が見えた。「富士山だぞー!」と船内はどよめいた。その瞬間に甲板上に倒れた兵士がいた。中澤は「おい! しっかりしろ!」と抱き起こしたが、すでに事切れていた。「あと少しで内地ではないか」。中澤は悔しくてたまらなかった。

「宗谷」の引揚任務は、グアム島、トラック島、上海、台湾、ベトナム、樺太、北朝鮮などに及び、3年間で約1万9,000人の人々を祖国に迎え入れた

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