くじけずに生きろ。日本人に大切な事を伝え続けた伝説の船「宗谷」

 

「『宗谷』の強運は先人たちの苦労の結晶だったのだ」

宗谷」は昭和13(1938)年2月16日に進水した。川南豊作(かわなみ・とよさく)という青年実業家が、長崎で閉鎖されていた造船所を買収して、初めて竣工した船であった。川南は「会社の金も、自分の金も、国のものである」が口癖で、常に「日本を良くしたい」という報国の志を抱いていた。

また、買収した造船所の前社長・松尾孫八を顧問に迎え入れ、「松尾造船所」と命名して、男泣きに泣かせるような、人情を持っていた。

そうした志と人情の中で建造された「宗谷」は、よほど精魂込めて造られたのだろう、それから30年後に南極観測船として改造された際の監督官・徳永陽一郎はこう語っている。

宗谷を改造するために、ばらして中身が露わになった時、目を見張ることとなった。あまりにも立派に造られており、「宗谷」の強運は先人たちの苦労の結晶だったのだと、そのときはっきり分かった。
(『奇跡の船「宗谷」』桜林美佐 著/並木書房)

「宗谷」はもともとはソ連からの注文で、砕氷型貨物船として建造された。しかし、進水後もソ連はいろいろ文句をつけて引き取らない。そのうちに、海軍が目をつけて、ソ連と話をつけ、測量艦宗谷」として使われるようになった。

「『宗谷』のように、何があってもくじけずに生きよう」

「宗谷」は千島列島や樺太周辺の測量に従事し、また開戦後はサイパンなど南洋での水路調査に活躍した。最前線の南洋で、浅瀬や防潜網、機雷などを正確に記述した海図を作り、艦船の運行を助ける。敵の偵察機も「宗谷」の測量を妨害しようと、爆弾を落としていくこともしばしばだった。

昭和19(1944)年2月、連合艦隊司令部のあるトラック島に停泊していた際に、米軍機延べ450機もの空襲に襲われた。魚雷攻撃や爆弾投下で、目の前の僚艦が次々に撃沈されていく。

一番砲手の八田信男は、仲間と共に敵機を狙い撃つが、傍らの仲間は次々と機銃掃射で斃れていく。甲板は肉片の飛び散る血の海と化した。八田も肩と両足に銃弾を受けその場に倒れた

「宗谷」は回避行動をとったが、その途中で座礁してしまった。夜を徹して、離礁作業を行ったが動けない。銃弾を撃ち尽くし、身動きもとれない状態で、やむなく「総員退避」の命令が下された。

翌朝、鎮まり返った湾内は見るも無惨な光景だった。沈没した艦船は50隻に達した。しかし「宗谷だけがポツンと浮かんでいた。自然に離礁して、乗組員を待っていた。「なんてやつなんだ…」乗組員たちは目に涙を浮かべて狂喜した。

艦の状態を調べてみると、損傷は少なく、航行に支障はない。ただちに負傷者たちを乗せて、内地に向かった。大怪我を負った八田もそのうちの一人だった。

八田は敗戦後も、足の痛みを隠して、必死に働き、小さなスーパーを営むようになった。八田を支えたのは「宗谷」の存在だった。「『宗谷のように何があってもくじけずに生きよう」という想いが、八田を支えてきた。

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