くじけずに生きろ。日本人に大切な事を伝え続けた伝説の船「宗谷」

jog20171013
 

かつて日本に「特務艦」「引揚船」「南極観測船」とさまざまに姿を変え、どんな困難な状況でも無事帰還することから「海の守り神」と呼ばれた船があったことをご存知でしょうか。今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』では、今でも「船の科学館」で見ることのできる「宗谷」が作った数々の伝説と、その乗組員たちの感動的なドラマが紹介されています。

昭和を走り続けた「宗谷」とその乗組員たち

医大を卒業し、海軍の軍医になった並河潔は、昭和19(1944)年に横須賀にやってきた。乗艦する艦名は直前まで分からない。軽巡洋艦「阿武隈」が停泊していたので、これか! と喜んだのもつかの間、命ぜられたのは、その横にいた小型でヘンテコな型の「宗谷」だという。「こんな格好悪い船に乗るのか…」 心底がっかりした。

砕氷船型の丸い船底のせいか、ゆれが凄まじい。しかも、石炭で走るため、8ノットしか出ない。乗組員は「48ノット」ならぬ「始終八ノット」と評していた。通常の艦隊の速度の半分で、目的地まで倍の日数がかかるため、常に「我艦足遅シ、先ニ洋上ニ出ズ」と信号を掲げて、船団より先に出発しなければならない。

「軍艦」とはほど遠い艦に任ぜられて、落胆するのは「宗谷乗艦を任ぜられた者が誰でもの事であったが、この落胆が、計り知れない幸運だったと感じるようになるのも、また常であった。

昭和20年6月、「宗谷」は「神津丸」「永観丸」とともに、横浜港で飛行機生産用機材を積み込み朝鮮の羅津(らしん)港に運ぶべく岩手県三陸海岸沖を航行していた。すでに日本近海も制空権、制海権ともにアメリカに奪われており、「特攻輸送」とも呼ばれていた。

「敵潜水艦を発見!」と「宗谷」から知らせようとした瞬間、轟音とともに大きな水柱が空中につきあがり、「神津丸が真っ二つに割れて轟沈した。ばらばらになった遺体や船体の一部が浮き上がってきた。再び、轟音がとどろく。「永観丸もやられた!

「これで黄泉(よみ)の国に行っても、『宗谷』に乗れます」

「宗谷」は爆雷攻撃を開始。ズンという鈍い爆発音が響く。「成功だ!」見事、敵潜水艦を仕留めた。

すぐに生存者救助のために、「宗谷」からカッターが降ろされた。波間に漂う浮遊物や死体をかき分け、生存者を救出する。並河はたった一人の軍医として、次々に運ばれてくる瀕死の負傷者の救命作業にあたった。一刻を争う、まさに修羅場であった。

自身の手ひとつに、目の前の名も知らぬ兵隊の運命その親その妻その子の運命までが懸かっている。自分は彼らの最後の望みの綱だ。そう思うと、何としてもここで命をつなぎ留めなければならない。その必死の思いで救命にあたった。

この修羅場を乗り切ったことが、並河の医師としての原点となった。戦後、内地に戻って間もなく、財産をはたいて5,000円の自転車を購入し、山をいくつも越えて患者の治療に奔走した。その志を教えてくれたのが宗谷」だった。

医師を引退した時に、寺に頼んで「宗谷院医王潔海居士」と、「宗谷の入った戒名を貰った。「これで黄泉(よみ)の国に行っても、『宗谷』に乗れます」と並河は言う。

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