「海のサンタクロース」から南極観測船へ
「宗谷」は昭和25(1950)年からは、創設されたばかりの海上保安庁に移籍し、灯台補給船となった。人里離れた岬などで暮らす灯台守りの一家に、火を灯す燃料や機材、暖房用の石炭、日用雑貨などを運ぶ仕事である。
遊ぶ相手もいない子どもたち向けの絵本やおもちゃも積んであり、家族揃って、その日の夕食は船でご馳走になる。毎年1回やってくる「宗谷」は「海のサンタクロース」だった。
昭和30(1955)年、「宗谷」は南極に赴く事になった。その年9月にブリュッセルで開催された第2回「南極会議」で、日本は南極観測計画に加わりたい、と手を挙げたのである。
戦前から我が国は白瀬探検隊による実績を持っていたが、戦争中の恨みを抱くイギリスやオーストラリアから「日本は、まだ国際社会に復帰する資格などない」という発言があった。それを跳ね返しての参加である。松村謙三文部大臣も「戦争に敗れ、意気消沈している時、こういうことをやらねばだめだ!」と後押しした。
「宗谷」を南極観測船に大改造するには多額の費用がかかったが、朝日新聞社が1億円を寄付すると共に、広く国民に募金を呼びかけ、小中学学生も参加して、1億4,500万円もの募金が集まった。
「宗谷」の船出を見送った鳥居辰次郎・元海上保安庁長官は、『宗谷の思い出』でこう述べている。
(「宗谷」は)その当時敗戦に打ちひしがれた無残な日本を甦らせ、一般国民、殊に青少年を鼓舞し、新生日本に立ち上がらせた精神高揚に、どれだけ貢献したことか。
(同上)
「海の守り神」から最後のご奉公へ
「宗谷」は昭和37(1962)年、第6次南極観測から帰国して、観測船としての使命を終えた。すでに国民的な存在となっており、しかも船齢26年となっていたが、すぐに次の任務が与えられた。北海道配備の巡視船として、流氷に閉じ込められた漁船などを救う任務である。
昭和45(1970)年3月16日には、択捉島近辺で操業していた漁船19隻が流氷群に閉じ込められた。11隻はなんとか脱出したが、7隻は巨大な流氷に前進を阻まれ、風速30メートルの猛吹雪の中で2隻が転覆、5隻の乗組員は流氷を伝って、択捉島に脱出した。
この時に助けられた84名の生存者の一人はこう語っている。
迎えの船がいつ来るのか不安だった。だから「宗谷」が来ることを知らされたときの喜びは大変なものだった。厚い氷をばりばり割って進んでくる大きな姿をみたとき、思わずジーンとなった。
釧路に入港するまでわずか1日の乗船だったが、すぐに入れてもらった熱い風呂と炊きたての御飯のうまさ。なによりも乗組員の心のこもったねぎらいを今日も忘れない。
(同上)
北方巡視船として、「宗谷」は16年間活躍し、救助した船は125隻、人数は約1,000人に及んだ。いつしか「宗谷」は「海の守り神」と呼ばれるようになっていた。
昭和53(1978)年、船齢40歳に達した「宗谷」は巡視船の役目を終えた。最後の「サヨナラ航海」で14の港を回ったが、全国で総計11万人の人々が見送りにやってきた。当初はスクラップ化される予定だったが、全国から「宗谷」を永久保存しようとの声があがり、11の自治体から陳情があった。
今、「宗谷」は東京お台場の「船の科学館」で見学者を受け入れている。「宗谷」を見て、海洋大国としての日本の未来を開こうという志を抱く青少年も少なくないであろう。「宗谷」最後の使命である。
文責:伊勢雅臣
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