幸福だった我が先人たち
国家レベルで考えれば、近代の創造価値のトップランナーは英国だった。産業革命で近代工業を生み出し、7つの海を支配する大帝国を築き上げた。
創造価値の次元では、江戸時代の日本はとうてい英国にかなう存在ではなかった。しかし、その英国から明治初年の日本を訪れた人々は、当時の日本人の暮らしぶりに目を見張ったのである。
たとえば、明治11(1878)年に来日したイギリス人の女性旅行家イザベラ・バードは、こんな旅行記を残している。
私達は三等車で旅行した。「平民」のふるまいをぜひ見てみたかったからである。客車の仕切りは肩の高さしかなくて、たちまち最も貧しい日本人で一杯になった。
3時間の旅であったが、他人や私達に対する人びとの礼儀正しい態度、そしてすべてのふるまいに私はただただ感心するばかりだった。それは美しいものであった。とても礼儀正しくてしかも親切。
…老人や盲人に対する日本人の気配りもこの旅で見聞した。私達の最も良いマナーも日本人のマナーの気品、親切さには及ばない。
(『世界の偉人たちが贈る 日本賛辞の至言33撰』波田野毅 著/ごま書房)
英国公使ヒュー・フレーザーの妻メアリは明治23(1890)年の鎌倉の海岸で見た光景をこう描写している。
美しい眺めです。—-青色の綿布をよじって腰にまきつけた褐色の男たちが海中に立ち、銀色の魚がいっぱい踊る網を延ばしている。…
さてこれからが、子供たちの収穫の時です。そして子供ばかりでなく、漁に出る男のいないあわれな後家も、息子をなくした老人たちも、漁師のまわりに集まり、彼らがくれるものを入れる小さな鉢や籠をさし出すのです。そして、食用にふさわしくとも市場に出すほどの良くない魚はすべて、この人たちの手に渡るのです。
(『逝きし世の面影』渡辺京二 著/平凡社)
我が先人たちの叡知
ほんの百数十年前の我が先人たちの姿である。当時の日本人は貧しくとも、互いに礼儀正しく思いやりをもって暮らしていた。そういう生き方が幸せへの道であるという叡知を我が先人たちは持っていた。
福島さんは視覚も聴覚も失って、ラジオも聞けず、テレビも見られない、真っ暗な静寂の宇宙空間のような中で、一筋に人間の生きる意味を問い詰めていった。その果てに見えてきたのは、創造価値のみに重きを置く近代文明に覆い隠されていた人間の真に生きる意味だった。
そして、福島さんの見つけた態度価値に重きを置いた生き方を、近代西洋文明に染まる以前の我が先人たちはそのまま実践して、幸福な社会を築いていたのである。
文責:伊勢雅臣
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