極限状態の意味は?
ちょうど、福島さんの最新著『ぼくの命は言葉とともにある』が出て、アマゾンでも高い評価を得ていたので、早速、読んでみた。それによると福島さんの障害は幼児の頃から徐々に進んだという。
原因不明の病気によって右目を失明したのが3歳のときです。まだ幼く実感はほとんどありませんでしたが、9歳で左目も見えなくなったときは、さすがに、「ぼくはどうやら、周りのみんなとは違う世界で生きることになったなあ」と思ったものです。
しかし、もともと私は楽天的で切り替えも早かったので、視力を失っても音の世界がある、耳を使って外界とつながることができる、と考えていました。そして実際、音楽やスポーツ、落語などに夢中になって過ごしました。
ところが、その音自体もだんだん怪しくなってきて、14歳の頃に右耳がほとんど聞こえなくなり、18歳のときには残された左耳も聞こえなくなってしまったのです。
(『ぼくの命は言葉とともにある』福島智 著/致知出版社)
光と音を奪われ、暗黒と沈黙の宇宙にただ一人漂っているような状態で、不安と恐怖に包まれた日々を過ごした。家族との会話も難しく、ラジオもテレビも聞こえないなかで、ひたすら点字の本を読み、点字で日記や手紙を書いて、自分が直面している極限状態の意味について考える日々が続いた。
「ぼくは豚とは違うんや」
やがて、この状況にも意味があるのではないか、と考えるようになった。当時、友人に書き送った手記に、こう書いた。
この苦渋の日々が俺の人生の中で何か意義がある時間であり、俺の未来を光らせるための土台として、神があえて与えたもうたものであることを信じよう。信仰なき今の俺にとってできることは、ただそれだけだ。
俺にもし使命というものが、生きるうえでの使命というものがあるとすれば、それは果たさねばならない。
そしてそれをなすことが必要ならば、この苦しみのときをくぐらねばならぬだろう。
(対談『運命を切りひらく』福島智、北方謙三/「致知」)
高校3年の頃、大学に進学しようと思った。父親は「無理して大学なんか行かんでもええ。好きなことしてのんびり暮らせばええやないか。これまでおまえはもう十分苦労した。おまえ一人ぐらいなんとでもなる」と反対した。福島さんは反発した。
ぼくにも生きがいがほしいんや。安楽に暮らすだけではいやや。ぼくは豚とは違うんや。
(同上)
「自分の人生においても、とにかく立ち続けたい」とは、こういう姿勢だった。
昭和58(1983)年の春、福島さんは東京都立大学(現・首都大学東京)の人文学部に20歳で入学した。盲ろう者としては日本で初めての大学進学だった。指点字で他者の発言や周囲の状況を伝えてくれる通訳・介護のボランティアの人々に支えられながら、大学に通った。