賭博は死罪の江戸時代に「減刑」を助言し、庶民を救った名君の師

 

知略の限りを尽くした本多正信が徳川家康に仕えていたように、名君の陰には支えとなる人物が存在します。今回、無料メルマガ『致知出版社の「人間力メルマガ」』で紹介しているのは、名君・上杉鷹山と師・細井平洲のエピソード。師弟のあるべき信頼関係、そして細井平洲の伝えようとしたこととは?

細井平洲の目指したもの

名君・上杉鷹山の師と知られる細井平洲。その師弟関係は深い信頼関係で結ばれていたことが伝わってきます。

鷹山は植物学者を集めて藩内の野山の植物で食べられるもの、食べられないものを分類した図録を作成し、領民に知らしめることもしています。天保の大飢饉の時藩内から一人の餓死者も出さなかったのは、これらの危機管理の取り組みが功を奏したからに他なりません。こういう藩主の姿を見て「この人のためなら」と思わない人がいるでしょうか。

その名君を育てたのが他ならぬ平洲であることを思うと、教育者・平洲の偉大さを思わないではいられません。平洲は藩主の心得として「国民の父母となれ」という教えを説きました。父母の役割とは我が子に食べる物着る物を与え安心して暮らし教育を施すことです。鷹山はこの父母の立場を藩政の場で実践し、領民の信頼を得て藩の再建を進めたのです。

刑罰の面でも同じことがいえます。当時、米沢藩に限らず、賭博は極刑の死罪とされるのが通例でした。しかし、処せられる人は極悪人ばかりというわけではなく、仕事の合間につい博打をして捕らえられる者が大半でした。

それに気づいた鷹山は、江戸の平洲に手紙を出し藩の掟の見直しを相談。その僅か5か月後には、全国に先駆けて死罪から所払いへと減刑する旨のお触れを出すのです。二人がいかに信頼関係で結ばれていたかが、この実話をとおしても知ることができます。

鷹山は3度、平洲を米沢に迎えていますが、最後に迎えたのは1796年、鷹山46歳平洲69歳の時でした。平洲が到着する日、鷹山は待ちきれずに城から離れた関根普門院まで出迎えます。13年ぶりの再会を喜び合う二人の姿を見て、藩民たちは皆感涙にむせんだと伝えられます。対面された普門院の境内には、「一字一涙」の石碑が立てられています。

平洲はこの時の様子を高弟の久留米藩の樺島石梁(かばしませきりょう)に出した書簡に記し、一文字読むたびに涙を流したというのがこの言葉の意味ですが、師弟の絆を伝えて余りあります。

庶民にも「へいしゅうせんせえ」と慕われていた細井平洲。その歩みや遺された言葉に学ぶところがたくさんあるようです。

立松彰(東海市立平洲記念館館長)

 

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【著者】 致知出版社 【発行周期】 日刊

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