どこに自分のプライドを置くか
詐称をしてしまう人たちにとって、自分自身のプライドは「与えられた肩書」や「用意された舞台」に依存しているのではないかと思います。つまり、自分の外側に存在していることになります。
この考え方は、「自分をバージョンアップする」という観点においては、最大の敵であるといっても過言ではないかと思います。
自分のプライドは、自分の中に存在していて、自分で育てることができる状態ではなくてはなりません。そうでないと、外部環境が変わるたびに自分のプライドがリセットされてしまうからです。過去の経歴を詐称するというのは、「存在すらしないものに自分のプライドを預けてしまう」という恐ろしいことです。
ウソがばれると、プライドだけではなくてあらゆる信用が同時に失われることになります。そんなものにプライドを預けるというのは、自分の心の自殺行為ではないかと思います。ウソをつきとおすためには、複数のウソを重ねなくてはなりません。そんなものに時間や労力を使うのは、本当に無駄です。
プライドを持つことは悪いことではありません。ただ、ありもしないものにプライドを持ってしまうのは、本当に意味のないことですし、自分の人生に大きな傷をつけることになります。
結局アクションがすべて
詐称した人たちは、何をすればよかったのでしょう。
東大に行くのが自分のプライドを作ってくれるなら、本当に勉強して東大に行けばよかっただけの話です。東大入学がかなわなかったのであれば、その時点での自分の状況を受け入れるか、時間をかけてでも東大をひたすら目指す努力をすればよかったのでしょう。もし、どうしても勉強が苦手なのであれば、形を変えて活躍ができる場所や分野を探せばいいでしょう。
別にプライドを捨てろとは言いません。しかし、虚構の地位や名声に依存して、過剰なプライドを作るのではなく、あくまでも「自分のアクション」と「その結果」がすべてである、と認識することから始まるのではないかと思います。
自分をバージョンアップしていくのは、すべて自分のアクションです。自分の足りないところを見つければ、不足している知識やスキルを埋めるための努力をし、それでも足りなければ人に助けを求めていいでしょう。
人に助けてもらうことはプライドが許さない、というタイプの人もいます。でも、世の中の成功者は、たいていの場合「人を頼る」名人でもあります。人を頼ることも含めて自分起点のアクションなのです。そして、人を頼って助けてもらっても、本人のプライドはビクともしません。全くの無関係といってもいいでしょう。
それよりも、生み出した価値にこそプライドを持つものであり、さらにはその結果すらも過去の成功として脳内処理をして、すぐに次の挑戦に取り組む人こそが、尊敬されるべき本物の成功者となりうるのではないかと思います。
他者との比較も必要なければ、外側の肩書にプライドを寄せる必要もありません。自分は何になりたいのか、そして自分は何ができるのか、ひたすら内製していくことこそが、自分を成長させることになるでしょう。
最後に
最初に事例で出された方は、ネットの中でずいぶんと叩かれてしまって、これからの活動は大変になるだろうなと思います。でも、もしかしたら「経歴を盛ってでも上に行きたい」というパッションを別の形で昇華させれば、再び表舞台で活躍できるかもしれません。ぜひ、本物の知識やスキルを身に着ける努力をしてほしいなと思います。
このメルマガをお読みの皆さんは、ぜひとも自分を磨くアクションを惜しまないでくださいね。またお会いしましょう、では。