歴史の授業で「蒙古襲来」を、「モンゴル人が攻めてきた」と教わった方も多いのではないでしょうか。ところがどうやら真相は、そう単純なものではなかったらしく…。今回の無料メルマガ『クリエイターへ【日刊デジタルクリエイターズ】』では編集長の柴田忠男さんが、文永の役と弘安の役、この2つの歴史的大事件に関わった「民族」たちを解き明かした一冊を紹介しています。
偏屈BOOK案内:宮脇淳子『世界史のなかの蒙古襲来』
『世界史のなかの蒙古襲来』
宮脇淳子 著/扶桑社
モンゴル帝国5代目の皇帝フビライ・ハンは東アジアへの支配を拡大し、独立を保っていた日本も征服しようと企てた。フビライは、まず日本にたびたび使いを送って、隷属するように求めた。しかし、朝廷と鎌倉幕府は一致して、これをはねつけた。幕府は、執権の北条時宗を中心に、元の来襲に備えた。元・連合軍は、1274(文永11)年に対馬・壱岐を経て博多に来襲した(文永の役)。
さらに7年後の1281(弘安4)年には、大船団を仕立てて日本をおそった(弘安の役)。日本側は、略奪と残虐な暴行の被害を受け、元軍の新奇な兵器にも悩まされた。しかし、鎌倉武士は、これを国難として受け止め、果敢に戦った。元軍は、のちに「神風」とよばれた暴風雨にもおそわれて、敗退し(略)日本は独立を保つことができた。この2度にわたる元軍の来襲を、「元寇」という。
これは自由社 中学社会『新しい歴史教科書』にある「元寇」の説明である。この程度が日本人の一般常識といっていいだろう。大正時代に小谷部全一郎が『成吉思汗ハ源義経也』を著し、義経=成吉思汗説が世間に流布した。戦後、高木彬光が推理小説『成吉思汗の秘密』を著し、最近では義経説のコミックがあるらしい。井上靖『蒼き狼』は日本人的なチンギス・ハーンを描いてる。
ロシア映画『モンゴル』で、チンギス・ハーンを演じたのは浅野忠信だった。司馬遼太郎の『韃靼疾風録』は満洲人とモンゴル人を混同している。日本人の描くモンゴル人や満洲人は「日本的なもの」の再生産であった。この本では史実に基づきモンゴルやモンゴル人の姿に迫っていく。鎌倉時代に「蒙古来襲」といっていた出来事は、江戸時代に「元寇」という呼び名になり定着した。
元という国が攻めてきたのは確かである。それを「蒙古襲来」ともいうから、蒙古すなわちモンゴル人が攻めてきたと日本人は思っている。モンゴル型の鎧や兜を身につけていても、それがどんなモンゴル人だったのか、本当に草原の遊牧騎馬民だったのか、大きな疑問が浮かぶ。そもそも何を「モンゴル」と考えるのか。文永の役、弘安の役は本当に「蒙古襲来」と呼ぶものだったのか。
正解は「蒙古来襲は決してモンゴルが主になって攻めてきたのではなかった」である。日本討伐を担当したのは「征討行省」が置かれた東の地域の、特に遼陽行省を含め、モンゴルの家来になったもとの女真族と契丹人、金の漢人、そして高麗人らだった。モンゴルの中央にいた「羊を飼って遊牧する草原の人」であるモンゴル人には、ほとんど関係のないところで行われた遠征だった。
その担当部署が自分たちの領分で、仕事として日本征伐を行って功績をあげれば、自分たちの取り分が多くなり、役所も大きくなって地位も上がるというのが理由だった。モンゴル帝国をよく知った著者が再検証してみると、「蒙古来襲」というが、モンゴル人はほとんどいなかったという実態が見えてくる。元軍が勝てなかった理由は一つでなく、いろいろな要因が積み重なったからだ。
元は二度の日本遠征の失敗にもかかわず、日本を征服する気満々で、三度目も企画されたようだ。13世紀後半、フビライ・ハーンの命で日本に遠征してきたのは、モンゴルだけがやってきた蒙古来襲ではなく、元寇だった。元朝にモンゴル人はいた。それより多くの種族がいたのだ。リアル「蒙古襲来」は大相撲である。元大関照ノ富士はいま幕下、捲土重来を期す。がんばれー。
編集長 柴田忠男
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