「日本を江戸時代の鎖国制度から開放し、近代化への手助けをした」と伝えられているペリー来航ですが、そもそもの目的は手を差し伸べる事ではなく、植民地化や征服だったという見方も存在します。今回の無料メルマガ『日本の情報・戦略を考えるアメリカ通信』ではAJCN Inc.代表で公益財団法人モラロジー研究所研究員の山岡鉄秀さんが、「ペリーの狙い」について詳しく解説しています。
ペリーを崇める下田の憂鬱
全世界のアメ通読者の皆様、山岡鉄秀です。
やっと長い梅雨が明けて、夏らしい日が続いています。こんな日には車でひとっ走りでビーチに繰り出したい、と思いますが、東京ではそうもいきません。
思えばシドニーでは、炎天下でへとへとになるまでテニスをやって、夕方からまだまだ明るい太陽を追いかけてビーチに繰り出し、波打ち際に腰かけて海を眺めていたものです。
あの海の青さが恋しくて仕方ないのですが、関東地方にも、真っ青な海が目を覚ましてくれる、お気に入りの場所があります。
静岡県下田市です。
ロマンスカーに乗って出かけるのも日本ならではの楽しみです。
しかし、その下田市に、ひとつ気になることがあります。
ホテルの送迎者の運転手さんが、変哲のない田舎道を走りながら教えてくれます。
「この道がペリーロードです」
海を眺めていると、黒船を模した遊覧船が横切っていきます。
お土産屋さんに入ると、ペリーのイラスト入りのお土産が並び、観光パンフレットには「ペリーが恋した青」というコピーが踊り、「ペリーは我が国に近代化をもたらした」という説明書きがあります。
そう、下田市は、市を挙げてペリーを町興しのマスコットにしているのです。
でも、下田の皆さんは、ペリーが何の目的で日本に来たのかご存知なのでしょうか?
ペリー来航の目的は三つあったと言われています。
当時盛んだった捕鯨の寄港地を確保するため。
清国との交易ルート中継地確保のため。
そして、他の列強に後れを取っていた植民地獲得競争の挽回を図るため、でした。
下田の方々はこうおっしゃるかもしれません。
「そんなバカな!ペリーは平和的な外交を願って日本に来て、近代文明を教えてくれたんだ!彼は恩人なんだ!日本の植民地化なんて考えていたはずがない!」
では、こんなエピソードはご存知でしょうか?
1945年9月2日、東京湾に停泊した米戦艦ミズーリの甲板で降伏文章調印に臨んだ日本政府代表の重光葵外相は、二つの異なる星条旗が飾られていることに気が付きました。
ひとつは、1941(昭和16)年12月7日(日本時間8日)、大日本帝国海軍による真珠湾攻撃の際にホワイトハウスに翻っていた星条旗。そしてもうひとつ、ミズーリの側面に31の星が配置されている星条旗が額に入れられたまま飾られていました。
この星条旗こそ、1854(嘉永7)年、日本に来航して日米和親条約を締結させたマシュー・C・ペリー提督のポーハタン号に掲げられていた国旗だったのです。
マッカーサーは、この「ペリーの旗」をわざわざメリーランドのアナポリス海軍士官学校博物館から取り寄せ、第二の日本開国を演出したのでした。
日本降伏の調印を終えたマッカーサーは米国民向けに演説を行いました。
「今日、銃声は止み、悲惨な悲劇は終わった。我々は偉大な勝利を勝ち取った。きょうの私たちは92年前の同胞、ペリー提督に似た姿で東京に立っている」
マッカーサーは、ペリーができなかった日本征服を自分は成し遂げた、という誇らしい思いで一杯だったのでしょう。
ペリーが訪れた165年前、下田の海はさぞかし美しく輝いていたことでしょう。その下田の青い海に心を奪われながらも、ペリーを恩人と崇める下田市の姿を見て、いつも複雑な思いになるのです。
山岡 鉄秀 :Twitter:https://twitter.com/jcn92977110