日本の教育現場や職場でまかり通る「金髪=悪」の法則は、多人種混合の世界的視野からは、奇妙に映ると言えるかもしれません。今回の無料メルマガ『「二十代で身につけたい!」教育観と仕事術』では現役教師の松尾英明さんが、「なぜ金髪はダメなのか?」といった問いに論理的な回答を用意することもできていない教育現場の矛盾が、そのまま日本社会の「謎ルール」として引き継がれていることを指摘しています。
「金髪に染めてはいけない」をどう考えるか
教員採用試験対策として、一部の学生の相談も受けている。その中で「金髪に染めた子の親から、頭髪も個人の自由ではないのか」と問われたらどうするか、というのがあった。
これはなかなか面白い。採用試験の答えとしては、最終的にきちんと親に理解してもらい、金髪をやめてもらうという方向になるだろう。当然である。そのまま認めてしまうといった無対応や、無理矢理染めさせるというような体罰的回答では落選確定である。
しかし、本当の現場を想定すると、ここはなかなか考えるべきところである。根本的なところまで深堀りして考えてみる。
金髪自体が悪。この説は当然成り立たない。世の中から相当な批判を食らうことになる。人体の特定の色が正しいとか正しくないとかいうことは、人種差別問題でもある。
次に出るのが「それが遺伝による自然な色ならいい」という考え。つまり、不自然だからダメということである。見るからに「金髪の人種」の人であれば問題ないということである。
この説で問題になるのが、生来色素が薄い子どもたちである。髪の毛の生来の色が、かなり明るい茶色なのである。しかし顔は日本人。「染めた」「染めてない」で揉めることになる。これは主に中学での「黒染め強要事件」として枚挙に暇がない。ちなみにこの考えに沿うと、白髪染めは悪、かつらも植毛も悪、パーマもカットも悪である。「ファッション」「装飾」という概念自体への否定である。
それを出すと、ここに続けて出るのが「大人はいいが、子どもはダメ」という考え。
これはよく例に出す、中学校の「一年生は白い靴下ワンポイント以外ダメ」みたいな謎ルールの仲間でもある。
この説が最も広い支持を得ている。この説には、理屈があるだけで、明確な理由はない。「頭皮への影響」「学校にそぐわない」等の理由付けはできるが、どれも今一つ歯切れが悪い。なぜかというと、かなりの部分が大人にも当てはまってしまうからである。
ちなみにここまで書いておいて、私も多分実際には、髪色を戻す方向に家庭を促す。
なぜかというと、日本の学校社会において多くの人の支持を得ているのが、先の「大人はよくても子どもはダメ」説だからである。これは「きちんとした接客業では金髪はダメ」というのと同じで「不快に思う人が多いから」である。特に、中年から高齢者の層には嫌悪感が根強い。そういう常識の中で生きてきたのだから、当然である。その集合無意識を今更変えることなど到底できない。
国際社会としての常識はどうか。頭髪を含めたファッションは「場に合うもの」というのがセオリーである。場がオープンであるほど、自由度は増す。フォーマルなパーティーにおいての服装と、ホームパーティーのファッションが違うのは当然である。
また様々な人種と文化が混じるオープンな国において、その自由度が増すのも当然である。
日本の学校社会というのは、オープンな場ではないということである。かなり閉鎖的である。よって、小学生段階で金髪に染めていて、後々に周囲に拒否されることは十分に予測可能なことである(子どもたち同士の間では特に抵抗がないかもしれない)。だから、「指導」対象となる。
場の常識が変わらない限り、この流れは変わらない。金髪でもピアスでもいいじゃないかというのは簡単だが、場の常識がそれを認めない。もしここに異論があるなら、場の常識を変える必要がある。
学校の常識、日本社会の常識。これを見つめ直すにおいても、この「金髪染め問題」は考えるべき題材である。
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