4.京都の謎 銀閣寺の銀沙灘&向月台
本堂の前の庭園にはユニークな二つの砂のオブジェがあります。波紋を表現した銀沙灘(ぎんしゃだん)と白砂の円錐形の盛り砂・向月台(こうげつだい)です。
丁寧に整備された砂紋や盛り砂はとても芸術的でひなびた趣のある銀閣とのコントラストにアクセントをあたえています。銀沙灘は白砂を段形に盛り上げて作られています。これは月の光を反射させて銀閣を照らすために造られたと言われています。
プリンのような形した円錐形の向月台(こうげつだい)は正面にある月待山(つきまちやま)から昇る月をその上に座って眺めるためのものと言われています。砂は白川砂で斜長石(しゃちょうせき)や石英(せきえい)を含み、光を強く反射する性質を持っています。
銀閣寺は月との関わりがとても深いお寺だということが垣間見れます。
5.銀閣寺が創建された経緯
義政は東山にあった浄土寺という寺の墓地を没収し無断でこの地に東山殿(現在の銀閣寺)を造営したと言われています。造営のために民衆に多額の税金を課し、東山殿造営の財源にあてたようです。義政が将軍として生きた時代は室町幕府の権力が衰退していく時代でもありました。この頃、時を同じくして地方の武士が台頭し争いが起き始め、情勢が不安定になっていきます。義政は何をやってもうまくいきません。その結果、気の休まる東山殿という別荘を創建することに突き進んでいくこととなったといいます。しかし地方の騒乱と大飢饉で資金はなかなか集まりません。義政は京都のみならず、奈良の寺社などからも優れた石や樹木を略奪したと伝えられています。京都だけでも、等持院から大量の松、東寺から大量の蓮、室町殿からは松、金閣寺から庭石、仙洞御所からも石を略奪したとのこと。なりふり構わず何が何でも東山殿を建てるという思いが伝わってきます。
しかし、造営された経緯がそのようなものだったので、現存する建物は銀閣(観音殿)と東求堂だけです。なぜなら義政の死後、略奪されたものを持ち主が取り返しにきたからです。色々なものを他人から略奪して素晴らしい別荘を建てても、跡形もなくなってしまうのは当然ですよね。
6.銀閣寺のモデルは苔寺
義政は、夢想疎石(むそうそせき)が建てた苔寺(西芳寺)に憧れていたといいます。夢想疎石は禅僧でありながら、天龍寺の曹源池(そうげんち)庭園なども造営した天下の名作庭家としても知られています。銀閣寺は苔寺を模倣して造営されたと伝わっています。下段を池泉回遊式庭園、上段を枯山水庭園とし両脇が植栽の壁で覆われていて途中で直角に曲がる参道などは同じ様式とされています。錦鏡池(きんきょうち)を中心に据えた池泉回遊式は西芳寺の庭園を模して造られたとされてますが、江戸期に改良が加えられ現在はかなり違う庭になってしまっているようです。
義政が銀閣寺で詠んだ和歌に次のようなものがあります。
「くやしくぞ 過ぎしうき世を 今日ぞ思ふ 心くまなき 月をながめて」
自らの無力感を感じ月の出を待ち、現実逃避をしているかのような歌です。和歌というのは多くは美しい自然を愛でたり、愛する人への思いを慕う内容が多いものです。幻想的で憧れを抱きながら詠んだものが一般的です。しかし、この歌は現実に打ち勝つことが出来ず、月へ逃避したいとの思いが感じられます。夢破れた強い悔しさがにじみ出ているのを感じます。
銀閣の正面の山を月待山といいます。義満はこの山から昇る月の出を愛でたことでしょう。そして銀閣寺はその後月見のための日本文化の花を開かせることになりました。