初日からすでにこんな感じということは、日頃からご両親の教育が素晴らしいということ。「いい?Mia、これはあなたのものよ。で、こっちはママのもの。お互いをリスペクトして。それぞれの権利を尊重し合うのよ」。そんな感じで教えているはずです。これからはうちも見習わなきゃ、と思った次第です。
直後、Miaちゃんが、クラス内のベンチに座ろうとした際、父兄のインド系のお父さんに向かって、言いいました。エクスキューズミー。これはアタシの椅子なの。あなたはアタシが座るはずの椅子に座っているわ。申し訳ないけど、どいてくださるかしら。
5歳児に言われて、慌てて照れ笑いしながら、そのお父さんは椅子から離れます。あ、ごめんね、と。また他の父兄と、先生と、Miaちゃんのお母さんは、微笑ましく、そのシーンを見て、笑い合います。当然、立ち上がったインド人のお父さんも頭を掻いて笑ってる。笑うしかない。
ん?なにか違和感。それ、クラスの共有ベンチだよね。miaちゃんの椅子じゃないよ。ふと、そう思ってしまいました。もちろん5歳の可愛い女の子の可愛らしい光景。微笑ましい、でしかない。誤解しないで欲しいのは、5歳の女の子に「間違ってるよ」と訂正したいわけでは決してないんです。どう見ても微笑ましい光景でしかない。
ただ、ちょっとだけ気になったのは、これは私の。それは貴方の。今はママの時間。お友達のスペース。etc.。所有格が会話の中にとてつもない量で入っている、ということ。
決して悪い、って言ってるわけじゃないんです。むしろ、というより絶対に「いいこと」なはずです。考えてみれば、幼稚園児だけでなく、ニューヨーカーは会話の中の「所有格」が多い。
日常シーンでよく聞きます。「今はあなたの時間よ」「すいません、ここはアタシのスペースなんですが」「これはパパの部屋なの」「あなたにはその権利はないわ」「わたしにはその権利があるはずよ」etc.…。
当然といえば当然。世界各国の移民で成り立ってきた街。まったく習慣も文化も人種も違う人間たちが共同で生き抜いていくためには、まずは「じぶんの」権利を主張することからなによりスタートしたはず。でないと、生活できない。「じぶんの」を主張するところからすべてが始まったはずなんです。
くどいようですが、決して批判しているわけじゃないんです。むしろ素晴らしいこと、とわかってはいます。自分の権利を主張するということは、相手の権利を尊重するということにつながります。人間社会の基本であり、そうでなければ、戦争勃発です。絶対に素晴らしい。
でも…なんか、ね(笑)。この違和感をまだ言葉でうまく説明できないなら、メルマガに書くなよ、と怒られてしまいそうですが。そっこまで、所有格を濫用して、自分の、相手の、権利を、所有をくっきり、はっきり明確に線引きしなくてもいいんじゃないのかな…いや、した方がいいか、そりゃ、な、やっぱりな。すいません、何を言いたいのか支離滅裂ですが。