脱競争原理のオタク主義。勝負せず生きていくために必要なこと

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時代が変わっても社会の仕組みをそれに応じて変えていくのは容易ではありません。それでも変えていかなければならないものの一つに、この国の教育手法をあげる人は多いのではないでしょうか。メルマガ『j-fashion journal』の著者で、ファッションビジネスコンサルタントの坂口昌章さんが、競争的教育手法が採用された背景と、そこから生まれた価値観について解説。現代の多様な価値観と生き方を踏まえた教育の必要性を伝えています。

競争的な教育手法は正しいのか?

1.国家のための教育、個人のための教育

国家が「教育」を国民の義務にする。教育こそ、国が強くなる手段である。しかし、教育を受ける側は、国のために教育を受けているという意識はない。自分のために教育するのだ。教育を受けることは、個人を幸せに導く手段であり、国を豊かにする手段でもある。両者の利害は一致していたのだ。

しかし、昨今の状況を見ると、「時代の変化と共に教育の中身を見直す時期に来ているのではないか」と思う。国家にとっても、個人にとっても、現在の学校教育は機能していないのではないか。

かつての日本が必要としていたのは、大多数の工場労働者と、一部のエリートであった。理想の工場労働者は、均一な品質であること。時間を守り、約束を守り、協調性があること。全員が最低限度の知識を持っており、それを共有していること。従って、赤点を取ってはならない。得意なことを伸ばすよりも、できないことを平均点まで持っていく。均一な労働力を育成する。教育の目的だったのだろう。

エリート教育は、工場労働者の教育とは全く次元が異なる。こちらは徹底した競争により、能力のある者を選抜していく。スタートは同じでも、途中から国立や私立の有名校に進学する。そこでは、均一な人材ではなく、考える力を付けていく。経営、マネジメントなどの基礎となるものだ。ある意味では、支配者側の教育である。あるいは、国家に貢献する各専門分野の研究者、エキスパートを育成する。

2.競争原理から生まれた価値観

個人の幸せを追求するには、何としても選抜に勝ち残らなければならない。競争に負ければ、先がない。そこで学校だけでなく、塾に通う。それだけでも飽き足らず様々なスポーツ教室に通う。しかし、スポーツの世界も一部のプロフェッショナルだけがスポーツで生活できるのであって、ここでも競争に勝ち抜かなければならない。幸福とは競争の果てにあるもの。そういう思想が刷り込まれるのだ。

しかし、当然のことだが、学問でも、スポーツでも競争に勝ち抜くのはほんの一握りの人であり、大多数の人は競争から脱落していく。競争から脱落した人は、どこかにコンプレックスを抱えている。競争に勝てない人は「平凡な暮らしの中で幸せを見つける」という価値観を押しつけられる。なぜなら、競争に負けたのだから。

勝った者も負けた者も、競争原理から導き出された価値観を押しつけられている。これは正しいのだろうか。

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