まったく意味不明の中国。習近平が口にした「民主」の呆れた真意

 

ちなみに、「過程」も「民主」も、明治期に日本がつくった和製漢語です。その多くは、西洋の概念を和訳するためのものであり、その意味では民主も欧米のいうところの意味をそのまま負っているのであって、決して別の意味を含んでいるわけではありません。しかし、習近平はこの「民主」という言葉に、別の意味を持たせようとしているかのようです。

孔子は弟子の子路に「先生が政治をすることになったら、何をしますか?」と聞かれ、「まずは物事の名前を正す。物事の名前が正しくつけられていなければ、言葉の意味が混乱し、誰も何もできなくなってしまう」と述べています。言葉の定義がはっきりしないと、それぞれが勝手な言葉の解釈をしだして世の中が混乱してしまうという意味です。

まさに習近平は、「民主」「自由経済に自ら勝手な解釈をつけ始め混乱をもたらしはじめています。いずれ「中国式民主」とは、「中国共産党の指導の下に行われる民主主義」といった、訳の分からないものになってしまうかもしれません。

2016年7月、オランダ・ハーグの仲裁裁判所が、南シナ海で中国が主権を主張する「九段線」について、国際法上の根拠がないと認定しましたが、その裁定を中国は「紙くずという暴言で批判しました。

中国にとっては、国際法というのは西側諸国が勝手に決めたことであり、これに中国は従う必要がないという考えなのです。そのため、中国は国際法を無視して南シナ海での勢力拡大をやめようとしないわけです。

それと同様に、「民主」というのも西側諸国が勝手に定義したものであって、中国が決めたことではない、ということなのでしょう。だから新たな定義をつくろうとしているのかもしれませんが、それは同時に、独裁や思想弾圧言論統制を正当化する民主になるということです。

「民主主義」とは何かということは、私がよく中国人の民主活動家たちと議論するテーマです。私はつねに「中国という国家が存在する限り、いくら民主化運動に献身的な努力をしても、絶対にして永遠に不可能だ」と主張していますが、その理由は民主主義とは小国主義のイデオロギーであり、政治制度だからです。異なる人種まで無理やり統合している状態で民主主義は不可能です。

民主主義国家は、決して近現代の国民国家時代になってから現れたのではなく、古代ギリシャや古代ローマの共和制時代、中世の都市国家もそうでした。

人類史を見ると、およそ2つの政治制度に分けられます。小国主義としての民主制と、ローマ帝国になってからもはや民主制が不可能になって皇帝制度になったことです。中国歴代王朝の歩みは、ローマ帝国のタイプに似ています。

私のこのような人類史の説明なら、理解できるという民主活動家もいます。「いままで国家規模から民主主義との関係など考えたことがありませんでした」という方もいます。

もちろん納得できない人もいます。彼らは、「世界のさまざまな国ができていることが中国だけできないはずがない。インドも世界の人口大国なのに、民主主義国家ではないか」と反論してきます。

しかし、インドもアメリカも連邦制か合衆国です。中国とはまったく政治制度が違います

08憲章」を起草し中国の民主化を訴えた劉暁波は、台湾のジャーナリスト林保華との対談後に逮捕され獄死しました。私は台湾で林氏に、なぜ劉暁波たちが作成した「08憲章」にサインしなかったのかなどを質したのですが、林氏は、「08憲章に『自決』『民族自決』の項目を入れなければ賛成できない」と劉暁波にアドバイスしたそうです。すると劉は、そのような項目を入れると、みんな逃げてしまうと言ったといいます。

中華民族」という言葉は、20世紀に入ってから維新派の梁啓超が革命派の民族主義との論争の中で新たに創出した造語で、現在もなお練成中ですが、これは中国にとって「神聖不可侵の言葉でもあります。

ウイグル人、チベット人、香港人、台湾人もすべて「中華民族」とされ、これを否定すれば分裂主義者として攻撃対象となります。だから中国の民主活動家でも、拳拳服膺するしかなく、「民族自決」は中国ではタブーなのです。そこが「中国の民主の限界」なのです。

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