アジア麺ロード in 那覇で感じた「東アジア○○共同体」の可能性

 

▼もう1つには、上から目線の大枠の話ばかりしていても何も始まらないので、逆に下から目線で、小さなテーマで東アジアの繋がりを意識できるようなイベントを組むことから始めたらどうか。図は「東アジア○○共同体」、「東アジア・なんちゃらかんちゃら・共同体」のイメージ図で、一応、左半分には「安保共同体」「経済共同体」も書いてあるが、これも漠然と唱えていてもダメで、具体的な中テーマや小テーマでのシステムづくりの議論が必要だろう。

▼それよりも面白いかもしれないのは右半分で、これはもっと身近な文化や食やライフスタイルに関わるテーマで、例えば、最近日本のラーメンとかカップ麺が中国本土や東南アジアで大人気だと報じられていて、そこからの思いつきにすぎないが、東アジアの麺文化の繋がり具合を体験できるようなイベントを、しかも沖縄でやるというようなことはどうだろうか……。

やがて14年4月に琉球・沖縄センターが開設され、早速に記念シンポジウム「東アジア共同体と沖縄の未来をどう開くか」を開催するなどの活動を始めると同時に、アジア麺ロードの可能性をも模索し始めた。15年の秋になり社会福祉活動を行うNPO団体が沖縄セルラースタジアムで「第10回しあわせコンサート/青い海と青い空のゆいまーるフェスタ」を開くので、その会場外の賑やかしの1つとして麺の屋台を打さないかという話が持ち上がり、苦心惨憺、何とか間に合わせて実行したのが第1回。同年10月16~17日のことだった。

翌年以降は、同センター独自イベントとして国際通り周辺の会場で開催するようになった。

●アジアに広がる麺繋がり

その初期、第3回くらいまでだったろうか、熱心に関わってくれたのは『沖縄・アジア面喰い紀行』(楽園計画、13年刊)という我々の企画にピッタリの著書がある平松宗隆ドクターで、彼には多くを教えられた。

周知のように、「沖縄ソバ」は蕎麦ではなく、小麦で作ったうどんの一種である。沖縄のほとんどの事物がそうであるように、これもまた中国由来である。昔は「シナスバ」と呼ばれていたのが、いつしか余分な「シナ」が省略されて「スバ」または「ソバ」と呼ばれるようになった。それでは蕎麦と区別がつかなくて困るだろうというのは本土の人間の感覚で、沖縄の人は日本蕎麦には馴染まず、まったくと言っていいほど食べないので、混同が起きる心配はない。

しかし、官憲というのは今も昔もお節介というか、どうでもいいことにも権力をギラつかせたがるもので、大正7~8年頃に警察から(ヤマトンチュ・ポリスに決まっているが)「紛らわしいから『琉球スバ』と名称変更せよ」との指導があった。が、もちろんそんなことに屈する沖縄人ではなく、スバ・ソバで押し通した。それで、日本官憲からの圧力がなくなってから、正々堂々と「沖縄ソバ」という地域ブランドを名乗るようになったのである。

中国由来と言っても、具体的にはどこからかというと、何と、長崎県である。明治25年に中国の福建省から長崎にやってきて「四海楼」を開業し、その10年後に長崎チャンポンを考案して売り出した陳平順が、そのまた5年後の明治40年に那覇に進出して「観海楼」を開設した。そのメニューの1つが「支那蕎麦」で、これが上記「沖縄ソバ」の元となった。

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