共通テスト記述式反対の私が感じる「振り回された」発言への疑問

 

1)「自由な思考、自由な記述こそが記述である!」と強調しすぎるのは危険だ

共通テスト試行調査の設問に対する批判でよく目にするのが、「もっと自由に書かせる記述じゃないとダメじゃないか」「こんな問題で思考力を測れるのか」という主張である。たとえば次の記事がその例だ。

まるで誘導…記述式問題「自由な思考」に逆行するガチガチ解答条件に中止を求める声(AERA dot. 2019年11月30日)

私はこの主張には危惧を感じる。自由自由と言うが、子どもたちに400字詰原稿用紙を2,3枚与えて「さあ自由に書け」と言っても、「自由に書ける子は非常に少ない。むしろ、思考が「ガチガチ」に固まってしまう子のほうが多い。むしろ、文章の型なり内容なりをある程度「限定」すると、逆に思考が働き出す。

100字前後の読解記述であっても同様だ。あらかじめ文章に用意された「傍線部」も「条件」の1つであるわけだが、たとえば傍線を引かずに文章全体に対する問いを課すと、手が止まる思考が止まる)子は急増する。傍線部という「限定」のおかげで、思考は働き出す。

結局、ある程度の条件を付すこと、すなわち「限定によってこそ思考は活性化するわけだ。だから、「条件をつけることそのもの」を批判し、もっと自由にさせろ!と叫ぶのは、やりすぎなのである。

「条件の質」について問題にするのなら、よい。1つだけ例示すると、2018年11月に行われた「平成30年度試行調査」の第1問の問3で、2文目を「それが理解できるのは」で書き始めろ、という指示があった。これはよろしくなかった。「しかし」という書き出しのほうが自然な文章になるケースがあり、それを封じてしまっている。そういった「質」について問題視するならよいが、とにかく自由に、という手放しのリベラリズムのごとき主張は、眉をひそめざるを得ない。

今、「質」と書いたが、設問そのものの質についても誤解があるようだ。先に挙げたAERA dot.の記事の中に、高校生らの声明として「まったく『思考力・表現力』を測れるものではなく、何ら導入の価値がない」という文言が見られるが、本当だろうか。

何度か行われてきた試行調査の設問について、その全てを「こんな問いでは思考力を測れない!」と断言するのは、やや暴論の印象がある。たとえば、2017年5月16日に公表された問題については、私は次のような分析記事を既にアップしている。

問題例1

小問1 一石二鳥を「言いかえる」設問。同等関係整理力が求められている。
小問2 ガイドラインと提案書を「くらべる」設問。対比関係整理力が求められている。
小問3 父と姉の言い分を「くらべる」設問。対比関係整理力が求められている。
小問4 主張から根拠へ(または根拠から主張へ)と「たどる」設問。因果関係整理力が求められている。

このように、求められている技能が非常に分かりやすい。(中略)これは、間違いなく歓迎すべきことだ。(「言いかえる」「くらべる」「たどる」についてはこちら)

また、先に挙げた「平成30年度試行調査」第1問の、問1は明確に「言いかえる」設問であり、問2は明確に「たどる」設問であり……というように、やはり求められている言語技能(思考技能)が明確である。そういう意味では、その問い自体の質を否定する必要はない。否定すべきはあくまでも採点の」のほうだということを、あらためてここで確認しておきたいわけである。

まあたしかに、問いに付された「条件文」の量は異常であり、解いていてイラつくし、不愉快である。しかし、読解設問に「唯一の解答」があるのは当然のことだ。自由自由と言いすぎると、その当然の前提も揺らいでしまう。

そもそも読解において大切なのは、「自己表現」ではなく「他者理解」である。自由を求めるのであれば、「自己表現における自由」ではなく、「他者理解(=他者の文章の再構成)における自由」を求めればよい。「この答えは、こういう表現で言いかえることもできるのではないか」というように。それは、言葉の幅の広狭に対する注文だ。読解で許される「自由」は、そこまでである。そのあたりを勘違いした批判は、そもそも「読解テスト」そのものを否定していることになるので、くれぐれも注意しなければならない。

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