3)「記述式見送りで受験生は振り回された」。振り回されなければいいのでは?
読売新聞朝刊、2019年12月18日。記述式見送りが発表された翌日の紙面(30面)に、こいう記事があった。
記事の一部を引用する。
「散々振り回されてきたので怒りを覚える。生徒の時間を返してほしい」 東京都内の中堅私立高校で2年生の担任をする女性教諭(29)はやり場のない憤りを吐露した。 大学入学共通テストでの記述式問題の導入は現在の高校2年生が対象で、2021年1月からの予定だった。それに向け、論述の内容を充実させるなど授業に多くの手間をかけてきた。
もちろん、気持ちは分かる。分かるが、「生徒の時間を返してほしい」とはどういうことか。この先生が行ってきた「論述の内容を充実させる」授業は、その程度のものだったのか。真に思考力を高める授業というのは、記述か選択かなどという「入試の出題形式」によって左右されるものではないはずだ。
私は、自らの国語専門塾における授業の内容が、今般の「共通テスト記述騒動」に左右されたことなど全くない。皆無だ。ずーっと、自らの信念に基づく授業を、変わらず行っている。教える側がそんな形式の変更にいちいち動揺しているから、生徒も動揺するのだ。
私は先日、高校生らにこう言った。「みなさんは、こんな騒動になんら影響されず、いつもどおりに論理的思考力を磨く勉強を続けていけばいいんです。思考力さえ確かならば、記述だろうと選択だろうと、何ら問題なくクリアできますよ」読売新聞の先の記事は、次のように続いている。 一方、都内の私立女子高校の副校長は「国立大学の2次試験などでは記述力が問われる。行ってきた指導は無駄にはならないだろう」と述べた。
そう、無駄になどなるはずがない。ただ、この副校長の言い分にも、問題は隠されている。それは、「国立大学の2次試験などでは記述力が問われる」という部分。これ、「あくまでも入試ありきで勉強している」という実状の現れだ。立ち止まって考えてみてほしい。生徒は、入試のために勉強しているのか? 目標は合格なのか? たしかにそれも目標だろうが、それはあくまでも通過点だ。大学合格とは、合格した先にある大学の授業で、ゼミで、より質の高い学びを、より質の高い研究を成し遂げていくための入口に過ぎない。そのときに求められるのが、高い思考力である。その思考力を身につけるためにこそ、高校で、質の高い国語の勉強をするのだ。
入試に「振り回されている」ような生徒は、大学に合格した時点で満足してしまい(あるいは疲れ切ってしまい)、その先の学問の機会を放棄するだろう。入試のためではなく、学問のためにこそ、学ぶ。この常識を今こそ訴えるべきなのに、それを最も声高に訴えるべき立場の人が、こんなことを言っている。
【文部科学相の諮問機関「中央教育審議会」の会長として記述式問題の導入など高大接続改革の議論を主導した安西祐一郎・元慶応義塾長】、その人である。
「記述式見送り、日本は「教育鎖国」状態に」と題された2019年12月17日の朝日新聞記事から、少し引いておく。論旨明確に考え、相手の立場を考慮して、論旨明確に表現する力、世界の中で生きていく日本の若い世代には、この力が決定的に必要だ。しかし現実には、全国の高校生にこの力が身についているとはとても思えない。高校教育がこの力の養成を置き去りにしてきたのは大学入試と無関係だからだ。
「大学入試に無関係だから、現場は思考力・表現力の育成を置き去りにしてきた。したがって、大学入試で記述式を課すことをやめるべきではなかったのだ」と、そういう意味だろう。後半は本文に書かれていないが、安西氏は今回の記述見送りを真っ向批判している立場なので、当然そう読んでよい。また、こうも述べている。
大事なことは全国津々浦々の高校生、大学生がこれからの時代に必要な力を身につけることだが、今回の入試改革の導入延期は、日本の教育では当分その必要はない、と宣言したことに等しい。
え? そうなの? 目が点である。「入試で問わないことは、授業でも扱われない」と、断定していることになる。たしかにそういう現状はあるにせよ、それを、中教審のトップかつ慶應義塾のトップだった人間が、堂々と言ってよいのか?そういう立場の人間は、むしろ、「入試で問われないことも高校の授業で扱ってもらいたい。そういう授業で学んできた人間をこそ、私たち大学は歓迎する」などと発言すべきではないのか。
最後に1つ。中教審は当然、学習指導要領の改訂も主導するわけだが、今般の改訂で表面化した「アクティブラーニング」は、どうなのか。これ、思考力・判断力・表現力を高める目的で考え出された方向性なわけだが、私は、アクティブラーニングはそういう能力の向上に逆行するやり方だと思う。これまで私は各所でアクティブラーニングを批判してきたので、詳しくはそれをごらんいただきたい。
大学入学共通テストに記述を入れることよりも重要なのは、学習指導要領の質を高めて授業現場を直接的に動かすことではなかったのか。
入試よりも授業。この当たり前の構造を、安西氏は忘れているのである。
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