歴史も証明。中国という国を滅ぼしかねぬ新型肺炎という「疫病」

 

中国の疫病流行は、すでに史前から甲骨文に刻まれています。現在、その甲骨文から確認できる殷周時代の古代人の疫病は約16~20種類もあります。そして、周初から漢代に至る「大疫」(疫病大流行)の記録では、しきりに「死者万数」「人多死」「士卒多死」「其死亡者三分有─」と、多くの死者を出したことを示す文言が繰り返し出ているのです。

中華帝国以後の中国は二千余年間、周期的、加速的に水害、旱魃等の天災に見舞われてきました。そして、旱魃の後に大飢饉が、水害の後に大疫病が発生するというのが、いわば「定番」になっています。歴代王朝の「正史」には疫病の大流行が数年ごとに、時には連年で記録されていることが、それを証明しています。

中国の歴代王朝は、実際には「大飢」や「大疫」によって滅ぼされた場合が多くあります。「大飢」によって生まれた流民が「大疫」の媒介や運び役となって世界へ拡散していくのです。

たとえば明の滅亡については、政治腐敗と、それに蜂起した農民反乱軍によって滅亡したと語られていますが、実は、それだけが要因ではありません。明末には「大疫」や「大飢」が間断なく襲い、餓死者や疫死者が続出。流民、流賊、流寇もあふれていたのです。これもまた、農民が反乱する要因にもなっていました。

ことに明末の万暦、崇禎年間(1573~1644年)には、華北地方で疫病が猛威をふるい、少なくとも1,000万人の死者が出ました。主にペストや天然痘です。明王朝は、実はこの大疫によって倒れたのであり、清に滅ぼされたわけではないのです。

また、黒死病(ペスト)といえば、中世のヨーロッパを襲った恐るべき流行が、史上でもっとも有名で、1348~51年の3年間で、人口の3分の1を死に至らしめています。その伝染経路については諸説があありますが、もっとも有力なのは中国大陸を発源地とするものです。

最初に大流行したのは南宋王朝です。この時、南征中だったモンケ・カーン(チンギス・カーンの孫、フビライ・カーンの兄)が病死していますが、その病気がペストだったとも指摘されています。南宋と戦っている間にモンゴル軍に伝染したのです。

このモンゴル軍の遠征を通じて、ペストは西アジア、クリミア、ベネチア、北アルプスを経て北上し、やがて全ヨーロッパに伝わっていきました。

元末の至正年間(1344~62年)の間には、「大疫」だけでも11回も起こっています。中華帝国の人口は、1200年には1億3,000万人いたとも推定されていますが、ペストの大流行によって、すでに1331年の時点で3分の2が死んでいます。ユーラシア大陸の東西ともにペストに襲われ、人口が大量に減ったのです。

また、それより以前、隋の煬帝末期の610年から唐初の648年の約40年間には、7回も疫病が大流行。隋も瘟疫で倒れています。

その他、インフルエンザ系の疫病はSARSに限らず、その発源地はほとんどが中国です。たとえば、1918年の秋に全世界で猛威を振るったインフルエンザ。感染者は地球人口の20~40%にも及び、感染からわずか4ヵ月で2,000万人が死亡し、その死亡率は約2.5%でした。日本でも2,000万人以上が感染し、死者は約40万人に上っています。

これが「スペイン風邪」と呼ばれるインフルエンザで、名称からスペインが発源地であると誤解する人が多いですが、実は、これも中国が発生源でした。そもそもは、1917年に中国の南方で発生したものが、船便を通じて世界各国へと拡散したのです。

中国で医療衛生が制度化されたのは、なんと20世紀になってからのこと。義和団事件後に変法派官僚によって、やっと天津に衛生総局が設立(1902年)されたのです。それも、中国から世界にペストがばら撒かれることを危惧した列強からの強い要請があって、ようやく重い腰を上げたというのが本当のところです。外国人を排斥する大事件が引き金になって、その外国の圧力によってようやく医療衛生が制度化されるという、皮肉な話です。

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