蔡総統も追悼。なぜ多くの台湾人が志村けんさんの死を嘆いたのか

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新型コロナウイルスによる肺炎で志村けんさんが亡くなったことは、海外メディアでも報じられていましたが、蔡英文総統が日本語で追悼の言葉を発し、多くのメディアが台湾と志村さんに関わるエピソードを紹介するなど、台湾での受け止めは諸外国とは一線を画すものでした。なぜ台湾の人たちは、日本人と変わらないショックを受けているのでしょうか?メルマガ『黄文雄の「日本人に教えたい本当の歴史、中国・韓国の真実」』の著者で台湾出身の評論家・黄文雄さんが、台湾の民主化の歴史とテレビの関係から、志村さんが台湾人に親しまれていった道筋を伝え、その理由をひも解きます。

【日台】台湾の民主化とともに歩んだ志村けんさん

「台湾人に笑いと元気」 蔡総統、志村けんさん追悼

先週のメルマガでは、志村けんさんが新型コロナウイルスに感染したことが台湾でも大きく報じられたことをお伝えし、その回復を祈念しましたが、残念ながら帰らぬ人となってしまいました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

志村けんさん(台湾では「志村健」と表記)は台湾通でも知られています。よく通っていたという台湾のマッサージ店には、彼の写真が掲げられているほどです。

台湾では1980年代から90年代にかけて志村さんの番組が流され、爆発的な人気となったことから、台湾人にとっても志村さんは非常に認知度が高いのです。蔡英文総統も、日本語で哀悼の意を表しました。そのことは、普段あまり台湾のことを報じない日本のメディアも報道しています。

台湾は1987年に、38年間という世界最長の戒厳令が解かれ、その後の民主化へとつながっていきます。その過程にあるなかで、それまで禁止されていた日本文化が次第に流入していきました。志村さんの番組も、まさにその時期に台湾へ入ってきたわけです。最初は日本で録画した海賊版をケーブルテレビで流すということから始まり、やがて日本のテレビ局と契約を結んで正式に放送されるようになったとのことです。

長らく国民党政府に抑圧されてきた台湾人にとって、日本の文化はひたすら輝かしく、まさに「自由」の象徴でした。とくにお笑いなどは、その最たるものでしょう。

1895年から1945年までの50年間、日本統治下にあった台湾は、日本の影響が強いため、戦後、中国大陸から渡ってきた蒋介石の国民党政府は、日本語や日本文化を禁止しました。そして1947年2月28日の2・28事件(台湾人市民による反政府デモと国民党政府の衝突)をきっかけに、国民党政府による台湾人弾圧(白色テロ)が開始、1948年には戒厳令が発せられ、以後、1987年まで台湾人は国民党政府の抑圧に苦しめられてきたわけです。

それだけに、日本統治時代を過ごした台湾人にとっては日本への郷愁があり、また、その下の世代にはアジアのトップを走る先進国としての憧れがありました。戒厳令が解かれる少し前には、すでに日本の漫画やアニメが海賊版として台湾に入ってきていました。

また、1980年代には台湾でケーブルテレビが次第に普及したことも、水面下で日本文化が広まる一因となりました。山間部が多い台湾では、通常の地上波の電波が届きにくいため、民間業者によるケーブルテレビの設置が進んだのです。

このケーブルテレビについては、放送の自由度が高く、国民党政府の統制外であったため、当初、国民党政府はケーブルテレビを非合法としましたが、すでに戒厳令末期にあった台湾では政府による取り締まりも実効性がなく、むしろどんどんケーブルテレビが発展していったのです。

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