縄文人は元々日本にいた?あの金印はニセモノ?歴史の謎に迫る

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縄文人は元々日本に住んでいた?国宝に指定されている、「漢委奴國王」と彫られたあの金印は国産だった!?今回の無料メルマガ『おやじのための自炊講座』では著者のジミヘンさんが、そんな日本の歴史の不思議に迫る人気番組の内容を紹介。殊にジミヘンさんが「松本清張ばりのミステリー」と唸った、金印を巡る謎とは?

諸説あり!

皆さん、お元気ですか。ジミヘンです。

暇つぶしに、BSテレビの歴史エンタメ番組『諸説あり!』を見ていたら、なかなか面白かった。

一つは「縄文人はどこから来たのか」。

2万年前には陸続きだったシベリア~サハリンから北海道へ渡って来たマンモスハンターがルーツだとする「北方説」。4万年前、東南アジア方面から丸木舟で沖縄諸島の島づたいにやって来たという「海洋民族説」。そして、もう一つが「10万年前から元々住んでいた」という説。

私の興味を惹いたのは、3番目の説だった。2016年ドイツの研究者が、ネアンデルタール人の花粉症DNA鑑定をして、世界各国の人のDNAと比較した。その結果、最もネアンデルタール人の遺伝子を受け継いでいたのは日本人だったという。俄かには信じがたいが、ホモサピエンスがアフリカを起源として世界に拡散する以前に、東アジアから日本にかけて旧人類が存在していたのか。そして、ホモサピエンスと混血し、縄文人になったのであろうか?

やがて、縄文人は朝鮮半島から稲作と鉄製武器を持ってきた弥生人に滅ぼされるのだが、ここでも混血が進み、縄文人に近い部族も多く残った。それは「古事記」や「日本書紀」に暗示的に記され、永遠の歴史ロマンになっている。

もう一つのテーマは「国宝・金印はニセモノだった!」。学校で学んできた有名な「国宝」がニセモノだなんて、そんなことがあるのか?

卑弥呼が登場する少し前の時代、後漢の皇帝から授けられたとされる金印は、意外な場所で発見された。江戸時代天明年間、現福岡県志賀島で水田を耕作中の甚兵衛は、偶然金印を発見する。鑑定をした儒学者・亀井南冥(かめいなんめい)は、「後漢書に記述のある金印」であると断定した。

しかし、古代の工芸技術に詳しい研究者によれば、金印の彫り痕は新しい技法であり、2,000年前のものとは思えない。中国には連綿と偽物を作りだす歴史があるとした。また、金印が発見された志賀島を徹底的に調査しても、弥生時代の遺構はなく、金印以外の出土品はなかった。金印だけが突然、姿を現したミステリーの顔を見せる。

先ず、鑑定をした亀井南冥に疑惑が向けられた。亀井は天明4(1784)年、福岡藩西学問所の学長になる。当時、西学問所と東学問所は熾烈な勢力争いをしており、その年に志賀島で金印が発見され、亀井は「金印弁」を著して名を高める。当時から自らの名声を高めるための自作自演だったのではという憶測があったが、その後、亀井は反対派の攻撃を受けて失脚し、西学問所は焼失。自宅も焼失し、死去。発見者の農民・甚兵衛は謎の失踪を遂げた。

最後に、金印の読み方は「かんのいとこくおう」だとする説が紹介された。「漢委奴國王」と刻まれた金印の読み方は、一般的に「かんのわのなのこくおう」とされるが、「倭(わ)」を「委」と略するのは不自然であるし、「漢の委奴(=伊都)の国王」とすれば、すべて正しく説明ができるとする。伊都国があったとされる現在の福岡県糸島市には当時の遺跡が多くあり、王墓も営まれていた。つまり、伊都国王が賜った金印とすることができる。とすれば、亀井が伊都国で見つかった金印を志賀島まで運び、農民に見つけさせるという工作を行ったのであろうか。

まるで松本清張ばりのミステリーである。真贋論争を含めて、「歴史ミステリー」は奥深く、人間臭く、魅力的だ。

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【著者】 ジミヘン 【発行周期】 週刊

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