感染症には無力。でも、あえて考える「social distance」のこと

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県をまたぐ移動の制限も解除され、行楽地や都心に人が繰り出す様子が伝えられました。外出自粛をストレスと感じている人が多くいた一方で、電車などでぐっと近づいた他者との距離にストレスを感じ、リモートワーク継続を望む人も多くいるようです。メルマガ『8人ばなし』著者の山崎勝義さんは、「どうやら人間には遠隔型と近接型の2タイプがある」と持論を展開。働き方改革には、時間的な問題に空間的な問題も加えて考える必要があると提言しています。

『distance』のこと

「social distance」(「社会的距離」)コロナ禍で生まれた、ちょっと妙な言葉である。

ここで改めて問うてみるのだが「社会的な距離」と感染症(あるいは感染)との間に一体何の関係があると言うのだろう。普通に考えると、例えば「僕と彼の間には社会的な距離がある」とあれば、置かれている立場や階級の隔たりのようなものを想起させる。言うまでもないことだろうが、こんな距離がいくらあったって感染から身を守ることはできない。

今、大切なのは寧ろ「physical distance」(「物理的距離」)の方なのである。実際WHOも「social distance」ではなく「physical distance」と言う方が望ましい、と公式に発表している。

つまり、家柄・身分・性別・人種といった所謂属性と呼ばれるようなものに起因する「社会的距離」といったものは感染症の前では当然無力であり、2mという「物理的距離」こそ有効である、と改めて言い直した訳である。

それにしても、こうした誤謬がそれこそ世界規模で生じた理由は何なのであろう。おそらくそれは我々が気付かぬうちに「社会」(「social」)という言葉の概念そのものが変革を遂げていたからであろう。身近な例を挙げれば、social media=「ソーシャル」メディア、SNS=「ソーシャル」ネットワーキングサービスという用語などからも分かるように、我々の「社会」(「social」)の概念は明らかに電磁領域に向かって拡大変容している。地球が狭くなる一方で、社会は(少なくともその概念は)どんどん広くなっているのかもしれない。

我が国における非常事態宣言下、諸外国における都市封鎖下においても社会は停止しなかった。言うまでもなくこれは社会の維持に必要不可欠な物理的労働従事者や医療従事者の献身があったればこその話だが、それでも家から一歩も出ることなく、あるいは一日誰とも会うことなく社会参加できる世の中に、気付けば、なっていたのである。加えてその状況をコロナ前の通常生活より快適と感じる人も相当数いたということも紛れもない事実である。

とは言え、目下のこの状況にやはりストレスを感じる人も一方ではいることを合わせて考えると、どうやら人間には(少なくともその労働のあり方には)、遠隔型と近接型の2タイプがあるようである。ここに来て、近年の課題の1つであった働き方改革は、時間的な問題に空間的な問題を加えて考えるべきものとなった。個人的には、この方がバランスが取れているような気がしている。

さらに言えば、労働のあり方の1つとして遠隔型というものを認めることで、今まで「社会」というものから時に能動的に時に受動的に距離を取らざるを得なかった、所謂「引きこもり」と呼ばれる人たちにも、通常の(言い換えれば、決して特殊という訳ではない)労働環境を用意することが理論上は可能となる。彼らの労働力としての潜在性はその数だけを単純に見ても相当なものである。

先に「社会は変容した」と述べた。結局のところ「我々はどうか」という問題である。「社会」というもの、そして「距離」というもの、それらと自分たちの関係をどうとらえて行くかということ、今こそ真剣に考えるべき時なのかもしれない。

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ここにあるエッセイが『8人ばなし』である以上、時にその内容は、右にも寄れば、左にも寄る、またその表現は、上に昇ることもあれば、下に折れることもある。そんな覚束ない足下での危うい歩みの中に、何かしらの面白味を見つけて頂けたらと思う。

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