中国の身勝手な「南シナ海で超えちゃいけないライン」が米国を怒らせる訳

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これまでにないほど緊張感が高まっていると伝えられる、米中による南シナ海での対立。「軍事衝突寸前」とまで報じるメディアも存在しますが、現在、二大国はどのような思惑を持ち対峙しているのでしょうか。ジャーナリスト・作家として活躍中の宇田川敬介さんは今回、自身のメルマガ『宇田川敬介の日本の裏側の見えない世界の話』で、20世紀半ばから現在までの南シナ海を巡る歴史をあらためて振り返るとともに、中国が南シナ海において「アメリカを怒らせて戦争にならない程度の進出」にとどまらざるを得ない理由を記しています。

風雲急を告げる南シナ海

中華人民共和国は南シナ海にあるスプラトリー諸島(中国側呼称:南沙群島)やパラセル諸島(中国側呼称:西沙群島)の領有権及び両諸島周辺の領海、排他的経済水域(EEZ)、大陸棚といった海洋権益問題に関して、1953年から中華人民共和国と中華民国(台湾)がその全域にわたる権利を主張するために地図上に引いていました。

この地図上の線のことを「九段線」といいます。もともとは蒋介石の中華民国が引いたという話があります。

第二次世界大戦の後、中華民国海軍は南シナ海海域の島嶼を使用し始め、水文学調査を行いました。もちろん、第二次世界大戦の時は、現在の「中華人民共和国」ではなく「中華民国」ですから、その海洋調査を行ったのも中華民国ということになります。

1947年12月1日、中華民国の内政省地域局が作成し、国民政府が議決・公布した『南シナ海諸島新旧名称対照表』及び『南シナ海諸島位置図』には、11段のU字線が中華民国の領海として取り囲まれるように描かれていたのです。これが現在の「九段線」の元となる「十一段線」といわれていました。

しかし、そんな中華民国も、このような海洋調査を行いながら、国内では戦争をしていました。日本と中華民国で戦争をしていたのですが、その戦争が1945年に終わり、日本国が撤退してゆきます。

それまで中華民国(国民党)と、中国共産党の間で戦っていたのですが、日本との戦争が激化してきたところで、一度和解しています。しかし、日本が撤退したのちに、その和解が崩され、また国民党と共産党の間で戦争が始まっていたのです。これを「国共内戦」といいます。

日本の敗戦によって中華民国は戦勝国となり、国際連合の常任理事国となっていたのです。もちろんこの時の常任理事国になったのは、国民党政府のことです。

しかし、国内では国民党と共産党が共通の敵を失ったことで統一戦線を維持する意義も名目も消滅し、戦後構想の違いから両党は早くも1945年10月から再び武力衝突へと転じたのです。そして、1946年6月より全面的な内戦に発展します。

共産党は、戦後シベリアに抑留される日本軍から最新式の兵器を鹵獲する作戦を遂行していたほか、ソ連からの援助も継続して受けており、国民政府軍に対して質的均衡となるほどの軍事力を得ていたのです。

一方の国民党は、そもそも日本と戦っていた時にその軍事指導をしていたのは、やはり敗戦国のドイツであったことや、日本と戦った軍の主力は国民党であったことなどから、党勢は小さくなっていました。

そのような状況で、軍の司令も少なく、また、ドイツ人も帰ってしまい兵も少なくなった国民党と、ソ連の援助を受け、最新式の日本製の兵器を使っている共産党では、どちらが優勢かもよくわかります。共産党軍は、徐々に南下して国民政府軍を圧迫してゆきます。

また日本軍の前面に立って戦力を消耗していた国民政府軍に対して共産党軍は、後方で力を蓄えると共に巧みな宣伝活動で一般大衆からの支持を得るようになっていったのです。

農村部を中心に国民党の勢力は後退、共産党が勢力を盛り返してゆき、1948年9月から1949年1月にかけての「三大戦役(中国語版)」で、共産党軍は決定的に勝利します。これにより、中華民国国軍(国民党軍)は主戦力を喪失し、「重点攻撃」を仕掛けることもできずに支配地域を一気に喪失していくこととなるのです。

国民党に代わる「新中国」建設の準備を進めていた共産党は、1949年10月1日に中華人民共和国の建国を宣言したが、この時点で国民党はまだ華南三省と西南部三省の広範囲を支配していたのです。

中国人民解放軍に対して、まともに対抗できないほど弱体化した中華民国政府と蒋介石は、1949年1月16日に南京から広州への中央政府を撤退させます。

その後、重慶(同年10月13日)、成都(11月29日)へと撤退した挙句、中国大陸から台湾への撤退を決定します。残存する中華民国国軍の兵力や国家・個人の財産など国家の存亡をかけて台湾に運び出し、最終的には1949年12月7日に中央政府機構も台湾に移転して台北市を臨時首都としたのです。

1953年以降、中華人民共和国がベトナム戦争当時支援していた北ベトナム軍のトンキン湾内にある島でのレーダー建設などの活動を妨げないよう、自国の安全保障政策と整合させるべく前述の十一段線のうちからトンキン湾付近の点線2つを除去し、新たに九段線へと書き直されました。そのような歴史があるのが、今の南シナ海です。

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