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【第7回】老害かよ。成功者が「晩節を汚す」心理的カラクリ 春日武彦✕穂村弘対談

人生はさまざまなものに例えられることがありますが、ゼンマイ式のオルゴールもそのひとつ。ちょうど良いタイミングで人生が終わることはありません。思い通りに終止符を打つことができなかったり、晩節を汚してしまったりすることも多々あるものです。「俺たちはどう死ぬか」をテーマにした春日武彦氏と穂村弘氏の対談シリーズ、今回はそんな若い頃と晩年の生き方について語っていきます。

春日武彦✕穂村弘「俺たちはどう死ぬのか? 」

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人生はオルゴールみたいなもの?

穂村 前に、〈オルゴールが曲の途中で終わってもかまわないのだむしろ普通〉(講談社『水中翼船炎上中』より)という歌を作ったことがあってさ。死について考えたら、そんな気がしたんだよね。

春日 いわゆるゼンマイ式のやつね。巻きが切れると曲も途中で止まってしまう。

穂村 うん。曲がちょうど終わったタイミングでゼンマイが切れるということは、まあないよね。大抵は、次の曲がちょろっと始まってしまったくらいのところでプツンとか。逆に、もうちょっとってところでプツンとか。人生もそういうものかもな、って。映画のようにさまざまな伏線が回収されて、すべてがキレイに丸く収まった状態で死ぬことはまずあり得ない。だから、「もうちょっと早く終わってたらキレイだったのにね、残念」みたいなこともありうる。

春日 いわゆる「晩節を汚す」ってやつだね。

穂村 過去の偉業を台無しにするような言動をしたりね。それで「老害」扱いされちゃったり。

春日 作家なら、これまですごくいい作品を書いてきたのに、それを無にするような駄作を書いちゃったりね。

穂村 往々にして、本人は自覚していないから、はたから見ているとキツイものがある。かといって、予防の手段もなさそうだし……。

春日 まあ無理だろうねぇ。あるいは、本人は特に変わってないんだけど、世間の価値観が大きく変わってしまって、それに伴い同じことをやっているだけなのに評価がダダ下がりするようなケースもある。で、ネットで炎上しちゃったりさ。これも本人としては「俺は変わってないのに、なぜなんだ?」というツラさがありそうね。

穂村 うん。その一方で、昔と変わらないことを「ブレない」と言って、ポジティブに捉える向きもあるよね。

春日 でも、まったく変わらないっていうのも、それはそれでどうかと思うけどね。成長しない、ということと紙一重でもありそうだし。

穂村 自分の場合、昔とは「変わった」という事実に、物を介して気づくことが多い気がする。趣味で何かを集めていると、熱中しているまさにその時は「これが自分にとって最高の物で、これから何十年と生きたとしても、これ以上に素晴らしい物に出会うことはないだろう」と信じて疑わない。でも、それから何年後かに情熱が冷めてくると、自分がかつてなぜそこまで熱狂し、執着していたのかが思い出せなくなる。自分の嗜好の変化が、物を鏡にすることで分かるんだよね。それが人のケースだと、中学の時に好きだったアイドルを言い合いっこする時とかに、つい現在の視点から見て、言ってもそう恥ずかしくなさそうな名前を挙げちゃったりして。嘘とは言えないけど、本当の本当に好きだったアイドルはちがうのに。

春日 あるねぇ。「俺は若い頃、ローリング・ストーンズ派だったよ」と言う奴が多すぎるのもそれじゃない?(笑) 「嘘つけ、お前、絶対ビートルズ派だったろ?」ってツッコミたくなる。ストーンズって言っといた方が不良っぽくて格好いいからさ、人は過去を、記憶を捏造するわけよ。

「若さ=無知」というアドバンテージ

春日 穂村さんは、年を取って作風が変わったみたいな意識はある?

穂村 昔自分が作った歌を見返していて「今だったら、こういう書き方はしないかな」みたいに思うことはあるかな。もう命令形の歌は作れないな、とかさ。やっぱり、ちょっと恥ずかしいような気がしてきてね。例えば、最初の歌集『シンジケート』(沖積舎)の〈ウエディングヴェール剝ぐ朝静電気よ一円硬貨色の空に散れ〉とか〈雄の光・雌の光がやりまくる赤道直下鮫抱きしめろ〉とか。「お前、いったい誰に命令してんだ?」って思っちゃうもん(笑)。でも若い時は、そんなこと考えないから。

春日 その命令している対象っていうのは、誰になるの?

穂村 要するに、「世界」に命令してるわけ。凄いよね。自分にツッコミを入れずにそういう作品が作れるのは、若くて知識も経験もないから。つまり、世界のことなんて何も知らないからこそ、できてしまう。

春日 じゃあ今、自分より若いヤツらがそういうのを書いてるのを見ると、苦々しく思ったりする?

穂村 羨ましくなることの方が多いね。韻文には、「何も知らないからこそ書ける」ということの成果が、散文に比べてめちゃめちゃ多いんだよね。だから、若さがある種の武器にもなる。〈校庭の地ならし用のローラーに座れば世界中が夕焼け〉(『ドライ ドライ アイス』より)という自作を例にすると、もちろん、いくら若いからといって、夕焼けというのは局所的な現象であって、世界中の空が同時に夕焼けになるなんてことは物理的にあり得ないということは分かっているんだよ。でも、その常識的な理解よりも、歌に没入するテンションの方がずっと高いから、「世界中が夕焼け」というフレーズを書けてしまう。

春日 じゃあ年をとると、常識が勝ってきてしまう、と。

穂村 「そんなわけないじゃん」という現実の介入の方が強くなるよね。もちろんフレーズ自体は、年取ってからでも言葉として浮かんでくる可能性はあるよ。でも、仮に同じ言葉であっても、プリミティブな感覚が欠如してしまっているから、そこに力が宿ってないように感じられてしまうんだよね。

春日 分かる気がする。ランボーの「地獄の季節」じゃないけど、「永遠が見えた」なんてのも若い時しか言えないフレーズだよね。

穂村 ああ、本当にそうだね。詩歌は「知らない」ということが強みになりやすいジャンルなんだよね。リアルな恋愛を知らない時にしか書けない恋歌とかも絶対あって。

春日 言い切るパワーって、結構無知が裏打ちしている例がいっぱいあるよね。確かに、これは年を取ると失われる最たるものの1つかもしれない。

年を取るとユーザーフレンドリーになる?

穂村 先生はどう? 若い時と今とで、作風が変わったみたいな意識はある?

春日 作風とはちょっと違うかもしれないけど、昔より文章にひらがなが多くなった気がする。

穂村 分かる。あれ何なんだろうね? それまでずっと漢字で書いてたものをひらがなにしようとしたり、逆にずっとひらがなで書いてたものを漢字にしたくなったりする感覚って。

春日 後者は、若い頃に覚えたての漢字を使ってみたくて……みたいな感じかな。あと似たところで、年を取ると改行が増えるケースも。例えば、内田百閒(1889〜1971年)は、明らかに晩年が近づくにつれ改行が増えていったよね。ある時期までは、むしろ1段落がかなり長い作家だったのに。

穂村 先生の場合、漢字をひらがなに開くようになったのって、何か理由があるの?

春日 「読みやすさ」みたいなことをかなり念頭に置くようになった気がする。自分が読みやすいっていうのもあるけど、それ以上に、読みやすくないものをわざわざ書くなんて迷惑だ、みたいなことを考えるようになったな。短歌の世界では、そういうのない?

穂村 もともと「読者=ユーザー」が少ないジャンルだからね。それが多ければ多いほど、そのジャンルはユーザーフレンドリーであることを要求される。でも、そもそも数が少なけければ、そんなことを考える必要はないもの。とはいえ短歌の世界にも市場価値を求める動きはあって、かつては当たり前だった文語を用いた短歌が少なくなったのは、その表れとも言えるかもしれないね。いずれにせよ、読み手が自分の側に原因があるという感覚はどんどん薄れていて、読みにくかったりとっつきにくかったりするのは、ユーザーフレンドリーじゃないコンテンツ側の問題だとみんなが思うようになっていると思う。

春日 勉強して自分で読めるようになりましょう、じゃなくて、コンテンツ側に「読みやすくしろよ」と要求する感じね。

穂村 「洋書が読めないのは、洋書のせいだ。英語が分からない俺のせいではない」みたいな感覚(笑)。それは極端だとしても、でも短歌における文語は、ほとんどそういう存在になってしまっているかもしれないね。まあ、自分が作り手として関わっているジャンルじゃなければ、僕だって「もっと使い勝手を良くしてくれたらいいのに」みたいなことを考えてしまうから、気持ちは分かるけどね。

作品改変は読者への裏切行為?

春日 ユーザーフレンドリーという話とはちょっと違うけど、それで言うと、作家が後年自作を改変したりするケースが気になるんだよね。あれって昔書いたものよりも、作家として成長した、より技術的にも内面的にも成熟した俺が今あの作品を書いたらもっと素晴らしいものになるのでは? という考えが根底にあるからなのかな? 例えば、井伏鱒二(1898〜1993年)が晩年、代表作の1つ『山椒魚』を自選全集に収録する際に結末部分を大幅に削除しちゃったじゃない。

穂村 あの改変は、世評的にはどうだったんだっけ?

春日 賛否両論あったけど、概ね大ブーイングだった。

穂村 やっぱり元の方が良い、と。

春日 確か野坂昭如(1930〜2015年)が「すでに書き手の手を離れている作品に、こんな事をしたら困ります」みたいに本気で怒って、『週刊金曜日』に不満を綴った文章を寄稿したりしてたな。まあ、その付近の発言を見る限り、井伏本人にもかなり迷いはあったみたいだけど。

穂村 でも、自分の作品をいじっただけでブーイングされるなんて、偉い人だけの悩みだよね。僕が自分の短歌を改変するって言っても、「どうぞ好きにして下さい」って言われるのがオチだよ(笑)。

春日 逆に三島由紀夫(1925〜1970年)みたいに、ほぼ直さない派もいるけどね。彼は400字詰め原稿用紙1枚単位で推敲したら、もう直すことはなかったらしいよ。つまり、次の原稿用紙に取りかかったら、前に遡って直すことはしなかったとか。あれだけ長い小説を書いている人だから、にわかには信じられなかったよ。

穂村 三島の場合はちょっと極端だけど、いずれにせよ、一度多くの読者に評価された作品を改変して「正解でしたね」と言われる確率は極端に低そうだよね。だいたいが不評だったり、スルーされちゃったりすることが多いと思う。短歌の世界でも、与謝野晶子(1878〜1942年)が過去作を改変して「定本」と銘打って出したりしたことがあったけど、やっぱり読者的には「これじゃない」感があって不評だったらしいよ。でも、それって受け手が初めて目にしたものを良いと思うバイアスが働いている、という可能性も否定できないよね。

春日 初見バイアスね。水木しげる(1922〜2015年)の『河童の三平』とか『悪魔くん』とか、昔描いた作品を後年リブートしたようなものにも同じことが言えるかもしれないね。ちょっと荒々しいところなんかも含めて、やっぱり最初のバージョンの魅力には抗いがたいものがあるから。

穂村 ちょっと違うけど映画の続編とかもね。『ゴッドファーザー』を見返す度に「これは2も良かった例外的な作品だな」って必ず思うもの。「良い」と思ったその時の自分の感じ方ごと、人は思い入れの強い作品を心の中に封印してしまうんじゃない? だから、それを改変された時、自分の気持ちごと否定されたような気がして、傷つけられたように思うんじゃないかな。

春日 裏切られた! という感覚ね。尊敬していた人が晩節を汚しているのを見てガッカリしたり、それに怒りを感じるのも、根っこの部分で同じような心の動きがあるからなのかもしれないね。あの時の、俺の気持ちを返してくれ! みたいなさ。

(第8回に続く)

春日武彦✕穂村弘対談
第1回:俺たちはどう死ぬのか?春日武彦✕穂村弘が語る「ニンゲンの晩年」論
第2回:「あ、俺死ぬかも」と思った経験ある? 春日武彦✕穂村弘対談
第3回:こんな死に方はいやだ…有名人の意外な「最期」春日武彦✕穂村弘対談
第4回:死ぬくらいなら逃げてもいい。春日武彦✕穂村弘が語る「逃げ癖」への疑念
第5回:俺たちは死を前に後悔するか?春日武彦✕穂村弘「お試しがあればいいのに」
第6回:世界の偉人たちが残した「人生最後の名セリフ」春日武彦✕穂村弘対談

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春日武彦(かすが・たけひこ)
1951年生。産婦人科医を経て精神科医に。現在も臨床に携わりながら執筆活動を続ける。著書に『幸福論』(講談社現代新書)、『精神科医は腹の底で何を考えているか』(幻冬舎)、『無意味なものと不気味なもの』(文藝春秋)、『鬱屈精神科医、占いにすがる』(太田出版)、『私家版 精神医学事典』(河出書房新社)、『老いへの不安』(中公文庫)、『様子を見ましょう、死が訪れるまで』(幻冬舎)、『猫と偶然』(作品社)など多数。
穂村弘(ほむら・ひろし)
1962年北海道生まれ。歌人。90年、『シンジケート』でデビュー。現代短歌を代表する歌人として、エッセイや評論、絵本など幅広く活躍。『短歌の友人』で第19回伊藤整文学賞、連作「楽しい一日」で第44回短歌研究賞、『鳥肌が』で第33回講談社エッセイ賞、『水中翼船炎上中』で第23回若山牧水賞を受賞。歌集に『ラインマーカーズ』『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』、エッセイに『世界音痴』『現実入門』『絶叫委員会』など多数。
ニコ・ニコルソン
宮城県出身。マンガ家。2008年『上京さん』(ソニー・マガジンズ)でデビュー。『ナガサレール イエタテール』(第16回文化庁メディア芸術祭マンガ部門審査委員会推薦作品)、『でんぐばんぐ』(以上、太田出版)、『わたしのお婆ちゃん』(講談社)、『婆ボケはじめ、犬を飼う』(ぶんか社)、『根本敬ゲルニカ計画』(美術出版社)、『アルキメデスのお風呂』(KADOKAWA)、『マンガ 認知症』 (佐藤眞一との共著・ちくま新書) など多数。

漫画&イラストレーション:ニコ・ニコルソン
構成:辻本力
編集:穂原俊二
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