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【第10回】死後の世界って言うけど、全然違う人間として死ぬんじゃないかな。春日武彦✕穂村弘対談

「死後の世界」という言葉がありますが、皆さんはどんなものをイメージしていますか?天国はお花畑が広がるような幸せな世界で、地獄は血の池がグツグツしているイメージですか?往々にして私たちは、死後も生前からの連続性を持つと信じているところがありますが、本当は全く違うのかもしれません。今回は過去の作家たちの作品から死後の世界へとアプローチ。精神科医の春日武彦さんと歌人の穂村弘さんが語りつくします。

春日武彦✕穂村弘「俺たちはどう死ぬのか? 」

過去の連載一覧はこちら↓

「自分」ではない自分として死ぬ恐怖

春日 小学生の頃、俺はよく朝礼で気持ち悪くなって倒れるタイプだったのね。スーッと意識がフェイドアウトしていって、気が付くと保健室で寝かされてるっていうようなことが散々あった。「死」もそんな感じじゃないかな、と思ってるんだよね。

フェイドアウトするように生から死に至るイメージ。その時、意識が戻れば生の続きがあるけど、戻らなければそれまで、みたいな感じ。だから正直なところ、本当は死後の世界もへったくれもないだろうと薄々思ってるんだ。

でも同時に、それじゃつまらんという気もしたりして。「死=無」って考えるのも、ちょっと怖い気もするしさ。

穂村 なんかリアルだね。夢の中では、現実とは異なるシチュエーションに置かれていても、それを「これは現実じゃないな」とは疑わないじゃない? 当たり前のこととして受け入れて、夢の中の現実を生きている。だから、死の直前に意識が混濁している時も、たぶんそうなんじゃないかな。つまり、生きている時のクリアな意識のままは死なない。何らかの夢なり妄念の中で死ぬだろう、って。

春日 つまり、もう「自分」じゃなくなっているわけね。

穂村 うん、この現実界での覚醒した自分との連続性はその前に失われていて、全然違う人間として死ぬんじゃないかな、って。でも、それってちょっと不安に思うじゃない? それまでの職業とか、家族とか友人とか、自分を形成してきたさまざまな属性がすべて無化されて、いわば「なかった」ことにされてしまうのは。

春日 今までの俺の頑張りは何だったんだ? とは思いそうだよね。死後も生前からの連続性を持つ、ということで言うと、あるのかないのか分からないだけにみんな気になるのか、けっこうたくさん書かれているのが「死後の世界」を描いたフィクションね。

例えば、前回取り上げた藤枝静男は「欣求浄土」(講談社文芸文庫『悲しいだけ・欣求浄土』収録)という連作を書いてて。そのうちの一編で、死んだ主人公が家族に会いにお墓に行くエピソードがあるんだけど、なんと墓の脇を自分でガバッと開けて中に入ってくんだよ。

穂村 死者が、物理的にお墓を開けて入って行っちゃうんだ(笑)。

春日 で、そこにはすでに故人となっている家族が待っていて、主人公は「戻って来たよ」とか言うんだけど、本人は角膜かなんかをすでにアイバンク的な所に提供してるんで、眼窩に脱脂綿かなんかが詰まってるんだよね。

穂村 そこはちゃんと現実からの地続きになってるのね。

春日 そうそう(笑)。そういった妙な律義さが藤枝静男の魅力のひとつでね。久しぶりに親と再会した主人公は「僕は悪い子だったよ」とか親父に謝ったりして、「いいんだいいんだ」みたいなやりとりがあって。それから、みんなでお祭りを見に行くんだけど、死んでいるから、みんな透明なんだよね。で、祭りを見て「ああ、面白かった」って、またお墓に帰っていくの。それだけの話なんだけど、死後の一家団欒の様子がなんだか妙に感動的でさ。

現実の中の特異点に「天国」を見る

春日 あとは変化球だと、アメリカのSF作家フィリップ・K・ディック(1928年〜82年)の短編「探検隊はおれたちだ」(ちくま文庫『フィリップ・K・ディック短篇集2 ウォー・ゲーム』収録)も面白いよ。火星に行っていた探検隊が地球に戻ってくるんだけど、みんな歓迎してくれるだろうと思っていたら、帰るなり銃向けられて殺されちゃうの(笑)。ひでえ! って思うんだけど、地球人の方は「やれやれ、またこいつらかよ」って反応で。

穂村 「また」?

春日 ネタバレになっちゃうけどさ、オチを言うと、火星に邪悪な異星人がいるらしくて、やってきた探検隊を殺して自分たちの思う通りにできる人間そっくりのクローンを作って、地球に送り込んでたんだよね。しかもクローン自身も、自分たちのことを元々の探検隊の人間だと信じ込んでいるのよ。それが延々と繰り返されています、って話なの。

穂村 ってことは、クローンの人たちは理不尽に思っているわけね。

春日 そうそう、「なんでみんな歓迎してくれないんだ?」って。

穂村 ちょっと気になったんだけどさ、死後の世界を描いた作品はたくさんあるっぽいけど、「死後はこうなりますよ」と、はっきりディテールまで描いているケースって少なくない? 作品上の「仕掛け」としてだけじゃなくて、どんな生活をしてるか、みたいな詳細にまで言及しているものはあまり読んだことがない。

春日 確かに、ふわっと描いているのがほとんどかもね。具体的に描こうとすると、丹波哲郎(1922〜2006年)みたいになる(笑)。彼は俳優以外に、心霊研究家の顔もあったんだよね。

穂村 自身の著作を映画化した『大霊界』シリーズね。誰もが想像する、一番ベタな形での天国と地獄が描かれていたよね。

春日 地獄なら、ラース・フォン・トリアーの映画『ハウス・ジャック・ビルト』(2019年)もいいよ。最後に主人公のシリアルキラーが死んで地獄に行くんだけど、そこが超リアルに実写で描かれたダンテの『地獄篇』そのまんまの世界なんだよね。馬鹿馬鹿しいもんを金かけて本気で撮る姿勢に好感を持ったよ。

穂村 地獄はケレン味のある描写とかもできるから楽しそうだけど、天国を描くのは作家的にどうなのかな?

春日 楽しく幸せで、くつろいだ状態のまま永遠の時間を過ごす——それだと、のっぺりとしすぎていて小説にするには難しそうだよね。書いてもあまり面白そうじゃないし。やっぱり直接書くとしたら、よっぽどの戦略を考えないとダメだと思う。素朴にそんなもの書いたら、陳腐なものになって馬鹿にされるに決まっているわけじゃん。あ、同じ天国でも、森敦(1912〜89年)の小説『浄土』(講談社学芸文庫)みたいなアプローチもあるけどね。

穂村 どんな風に描かれているの?

春日 直接天国を描いているわけじゃないのよ。朝鮮にいた時にお墓で踊ってる人たちがいて、「まあキレイ。浄土みたい」って一緒にいた女の子が言った、っていうそれだけの話でさ。

穂村 でも、そっちの方がイメージできるかもしれない。現実の中で、そういう特異点みたいなところに差し掛かった時に「天国」というイメージが喚起されると、それで自分の中の天国像が出来上がってしまうことって僕も覚えがあるよ。

竹富島に初めて行った時、大きな蝶がいっぱいいて、それが胸にばんばんぶつかってきてさ、何だかこの世の光景とは思えなかったんだよね。以来、自分の中の天国は「大きな蝶が胸にぶつかってくる場所」として定着してしまった。

「完璧さ」と、死への不安

穂村 現実の風景の中に「あの世」を見るといえば、以前「気が付いたら、今週は1回も信号に引っかかってない」みたいな歌を見たことがあってさ。これ、「ラッキー!」って感じるよりも、むしろ不穏な感じがするよね。たまたま信号に引っ掛からずに行けることはあっても、ずっと赤信号を見ないでいるなんてことは不可能でしょ? 

「こんな都合がいいことはあり得ない……実はもう死んでるんじゃ?」的な想像が働いてしまう。天国には青信号しかない、みたいなイメージというか。それこそさっきのディックの小説じゃないけど、自分が死んでいることに気付いてないだけだったりしてね。

春日 アメリカの作家ジャック・フィニイ(1911〜95年)の「死人のポケットの中には」(早川書房『レベル3』収録)という短編小説に、まさにそれと同じような描写があったよ。ホテルで窓の外に大事な紙片を落としちゃうんだけど、それが外壁の出っ張りに引っかかるんだよね。拾いに行こうとその出っ張りを蟹みたいに伝い歩いて行くんだけど、あまりに高い場所なんで目がくらんで固まっちゃうの。

で、その時に下を見たら、信号が全部、一斉にグリーンに変わるわけ。ずらりと一直線に。読者は、そのシーンで主人公の「のっぴきならない」状況をありありと感じるような作りになってるのね。

穂村 汗がべたべたしてちょっと不快だなとか、蚊に食われて痒いとか、口内炎が痛いとか、人って完璧な状態にあることってほぼないじゃない? 不完全であることに、逆に正常さを感じるというか。

だから、あまりにもそうしたノイズがないと、むしろ「死んだんじゃないか?」みたいな不安を感じるわけだよね。こういう感覚が共有されていることを、フィクションを通して知るのは面白いね。天国ののっぺりとしたイメージって、そういう、すべてが完璧であることへの不安、みたいな感覚と繋がっているのかもしれない。

春日 小説とか映画はたくさんあるけど、死後を詠んだ短歌とかもあるの?

穂村 「天国」みたいな語彙が出てくる歌はけっこうあるよ。ただ、日本人が天国という言葉を使うと、やっぱりちょっとファンタジーっぽくなるんだよね。「死後」という言葉が出てくる歌の方が、リアルなものが多い印象かな。例えば、僕の所属している短歌同人「かばん」のメンバーだった杉崎恒夫さん(1919〜2009年)の〈葱の葉に葱色の雨ふっていて死後とはなにも見えなくなること〉とかさ。

春日 いい歌だね。短歌をそんなに読まない俺でも良さが分かる。

穂村 うん。たぶん、「葱の葉に葱色の雨ふっていて」が効いてるんだと思うんだ。死んだら身体がなくなるから、目も見えなくなることは知ってるんだけど、その現実をあらためて突きつけられている感じがした。実際、僕は目が年々悪くなっていて、「死に近づく=目が見えなくなっていく」という実感が強いし、何なら死よりも先に目が見えなくなる怖さも薄々感じているしね。

春日 加齢と共に失われていく感覚みたいなのが描かれているのがリアルだね。

穂村 でも、この「葱色」というのはどういう色なんだろう?

春日 何となく、薄い緑って感じがするよね。白とグラデーションになっているような。

穂村 そういう風に、微妙な色合いっていうのも、現世と死後のあわいを感じさせるのかも。この系譜なら、内山晶太の〈わが死後の空の青さを思いつつ誰かの死後の空しかしらず〉(六花書林『窓、その他』収録)とかも。今日のこの空も、昨日までの無数の死者にとっては死後の空で、でも、自分がその仲間に入った時には、もうその日の空を見ることはできないんだなあ、という歌だよね。これもまた、「死後とはなにも見えなくなること」だね。

死と煩悩

穂村 それから、ちょっと強烈な形で天国を詠んだ歌もあって。葛原妙子(1907〜85年)の〈ゴキブリは天にもをりと思へる夜 神よつめたき手を貸したまへ〉(短歌新聞社文庫『朱霊』収録)。人間主体で考えると、天国にはお花畑と美味しいものでいっぱいみたいなイメージがある。でもリアルに考えると、人間にとっての害獣や害虫だって同じ生き物だから天に召されるわけで、それを排除して考えることは都合が良すぎるよね。

この歌の世界では、たぶん天国には殺虫剤とかは存在しなくて、人間と同じようにゴキブリなんかも同居する場所としてイメージされている。でも、「つめたき手」っていうのがミソで、全能の神に祈りを捧げつつも、ギリギリのところで「人間であることの誇り」を感じさせる。

春日 でも、ゴキブリを出してくるところが、ある意味あざとくない? しかもカタカナでさ。浮いてしまうようなことを敢えてやっている印象を受けるけど、これはアリなの?

穂村 うん、ただ、葛原は明治生まれだから、現在の歌人たちが当然のように持っているメタ的な感覚とはちょっと違うんだよね。今我々がこのテーマで作ろうとしたら、もうちょっと直接的ではない形をとるかもしれないね。

林和清の〈死後の世にもビニールありて季(とき)来れば寒風に青くはためいてゐる〉(砂子屋書房『匿名の森収録)なんて歌も思い浮かぶな。何となく天国には天然素材しかなさそうなイメージがあるけど、ここではビニールという人工物が存在していることで奇妙な感じが生まれている。これはある種のアイロニーだと思うんだけど、ゴキブリやビニールはかなり現世と近い存在だよね。

春日 どちらかと言えば、「俗」側のイメージだね。

穂村 うん、天国に行きさえすればすべてOKとはいかないイメージがあって、地獄とは別の天国の怖さってあるのかもね。

春日 天国に行ってもなお、現世のカルマから逃れられない、みたいな。

穂村 あと、斎藤茂吉(1882〜1953年)の歌に〈彼(か)の岸に到(いた)りしのちはまどかにて男女(をとこをみな)のけじめも無けむ〉(短歌新聞社文庫『暁紅』収録)っていうのがあって、文語体でちょっと読み取りにくいんだけど、「けじめ」は区別って意味で、つまり、死んだ後は性別が無くなるって内容なのね。これを書いた当時、茂吉は弟子の若い歌人と不倫をしてて、世間的に叩かれていたの。だから、死んで性別のない世界に行ったら色恋ごともなくなって心穏やかにいられるのに、って詠ったわけね。

で、これの本歌取りに当たると思っているのが、佐藤弓生の〈男でも女でもないまるめろのかがやく園と思えり死後を〉『薄い街』でさ。ここでも「男でも女でもない」と、性のない死後が一種の楽園のようなイメージで詠われている。こちらはいわばフェミニズム的視点で書かれた歌だよね。多くの人にとって、現世では性別や性差が苦しみの根源だったりする。彼女のペンネームが一見すると男性なのか女性なのか分からない形をとっているのも、その感覚や問題意識の表れなんだと思う。

あと茂吉には、〈たまきはる命をはりし後世(のちのよ)に砂に生れて我はいるべし〉(短歌新聞社文庫『ともしび』収録)という死後を詠った作品があるけど、死んだら何もなくなるとか、来世なんかない的なことはよく言われるけど、「え、砂なの?!」みたいな面白さがあったな。

春日 性差がなくなるのも、砂になるのも、どちらも生々しさが抜けていく感じがあるね。しかし、みんな淡白な死後をイメージしてるんだな。天国で好きな相手とヤリまくるみたいな発想にはならないんだね(笑)。

穂村 それは竜宮城だねぇ。

春日 人は死んだら煩悩が全部消える系の発想とは真逆だよね。むしろ、天国で生前のエゲツない妄想を全部実現させてやるぞ! みたいなさ(笑)。

穂村 そういうことを言ってると、天国に行くか/地獄に墜ちるかのジャッジをされる時、鬼に心の中を読まれて「けしからん!」って地獄行きにされるんじゃないの?

春日 いやいや、分からないよ。死んでもなお、そんな煩悩の塊みたいなこと考えているのか! お前は正直だな、って天国に行かされることを俺は期待しているけど。

穂村 そんなのアリなの!? 

春日 「いやー、俺も薄々そう思ってたんだよ」って、鬼に肩叩かれたりしてさ(笑)。

穂村 正直に言うと金の斧がもらえます的な。そううまくいくかなあ……(苦笑)。

(第11回に続く)

春日武彦✕穂村弘対談
第1回:俺たちはどう死ぬのか?春日武彦✕穂村弘が語る「ニンゲンの晩年」論
第2回:「あ、俺死ぬかも」と思った経験ある? 春日武彦✕穂村弘対談
第3回:こんな死に方はいやだ…有名人の意外な「最期」春日武彦✕穂村弘対談
第4回:死ぬくらいなら逃げてもいい。春日武彦✕穂村弘が語る「逃げ癖」への疑念
第5回:俺たちは死を前に後悔するか?春日武彦✕穂村弘「お試しがあればいいのに」
第6回:世界の偉人たちが残した「人生最後の名セリフ」春日武彦✕穂村弘対談
第7回:老害かよ。成功者が「晩節を汚す」心理的カラクリ 春日武彦✕穂村弘対談
第8回:年齢を重ねると好みが変わる? 加齢に伴う「ココロの変化」春日武彦✕穂村弘対談
第9回:俺の人生ってなんだったんだ…偉人たちも悩む「自己嫌悪な半生」 春日武彦✕穂村弘対談

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春日武彦(かすが・たけひこ)
1951年生。産婦人科医を経て精神科医に。現在も臨床に携わりながら執筆活動を続ける。著書に『幸福論』(講談社現代新書)、『精神科医は腹の底で何を考えているか』(幻冬舎)、『無意味なものと不気味なもの』(文藝春秋)、『鬱屈精神科医、占いにすがる』(太田出版)、『私家版 精神医学事典』(河出書房新社)、『老いへの不安』(中公文庫)、『様子を見ましょう、死が訪れるまで』(幻冬舎)、『猫と偶然』(作品社)など多数。
穂村弘(ほむら・ひろし)
1962年北海道生まれ。歌人。90年、『シンジケート』でデビュー。現代短歌を代表する歌人として、エッセイや評論、絵本など幅広く活躍。『短歌の友人』で第19回伊藤整文学賞、連作「楽しい一日」で第44回短歌研究賞、『鳥肌が』で第33回講談社エッセイ賞、『水中翼船炎上中』で第23回若山牧水賞を受賞。歌集に『ラインマーカーズ』『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』、エッセイに『世界音痴』『現実入門』『絶叫委員会』など多数。
ニコ・ニコルソン
宮城県出身。マンガ家。2008年『上京さん』(ソニー・マガジンズ)でデビュー。『ナガサレール イエタテール』(第16回文化庁メディア芸術祭マンガ部門審査委員会推薦作品)、『でんぐばんぐ』(以上、太田出版)、『わたしのお婆ちゃん』(講談社)、『婆ボケはじめ、犬を飼う』(ぶんか社)、『根本敬ゲルニカ計画』(美術出版社)、『アルキメデスのお風呂』(KADOKAWA)、『マンガ 認知症』 (佐藤眞一との共著・ちくま新書) など多数。

漫画&イラストレーション:ニコ・ニコルソン
構成:辻本力
編集:穂原俊二
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