教えられる子どもの側に立つと、実行能力と意欲の2軸で4つの領域に分けられる。
1.実行能力もやる意欲もある
2.実行能力は不足しているが、やる意欲はある
3.実行能力はあるが、やる意欲は不足している
4.実行能力もやる意欲もない
1.は何も問題がないので、教えてやらせてみればよい。教える側がどんな人でも問題ない。高い課題を示すだけで勝手に自分でどんどん伸びる。
2.は、本人がやれるようになりたい状態である。教える側は、あれこれ工夫して、手をかけ頭をひねって一生懸命に教えればよい。熱心に教えて感謝されることはあっても嫌がられることはない。
3.から先が難しい。
3.は、子どもが目的意識をもてるような工夫が必要になる。しかしながら、本人が求めてないので、下手に与えることは迷惑になる。ただ、内容が定まっている学校という枠組み内で、放置してやらせない訳にもいかない。なまじっかできるがゆえに、教えるということ自体が難しい状態である。
4.は最も難しい。教える側からすると、手も足も出ない状態である。あれこれ工夫して意欲を出すようであればいいが、多くの場合有難迷惑である。しかも、意欲をもっても、簡単にはできるようにならないのである。そうなると、意欲の維持自体も難しい。
まとめると、教えるという行為には、限界がある。教えるという行為は、与えるという行為の一種である。内から引き出すという意味があるものの、それ自体も教える側からの働きかけである。求めていない相手には、有難迷惑である。
そう考えると、教える側ができることは何か。なるべくその教えたい内容の魅力が伝わるようにしつつ、提示するまでである。それを受け取るかどうかは、学びの主体である子ども自身が決めることである。
受け取った子どもに対しては、更に教えることが数珠つなぎ的に出る。受け取らない子どもに対しては、また別の機会に違うものを提示をするしかない。
ここを無理に押し付けて魅力を伝えようとすると、嫌がられる。それは、訪問セールスと同じである。
相手がその商品を気に入ったならば、相手から呼ばれて買われるようにまでなる。あるいは相手がセールスマン自身を気に入ったならば、他のあらゆるものもその人から買うようになる。そしてこれは、お互いに幸せな状態である。
相手が興味をもたないならば、迷惑で鬱陶しい存在でしかない。しつこく訪問して売ろうとすることで、顔を見るのも嫌という可能性が大いにある。そしてこれは、お互いに辛い状態である。
まとめる。教えるということ、その本質は「提示」である。そこから先は、相手次第である。
提示するものの魅力を工夫して十分に伝えること。一方で、興味をもたない相手に押し付けないこと。
この辺りが教える際の要点ではないかと思われる。
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