米大統領選で鮮明になった「分断」は、「寛容さ」で解決可能か?

 

日本の靖国問題で考える、「分断」に「寛容」は有効か?

こうした問題について、バイデン氏は「自分の連邦政府にはトランプ個人の捜査はさせない」としています。「他にもっと重要なことがあるから」というのですが、そんなことを言っても司法省傘下のFBIや財務省傘下のIRS(国税)などは、トランプの違法行為についての証拠を山のように集めているはずで、仮に州レベルなど地方政府でジャンジャン起訴されるような事態になれば、連邦だけ「知らんぷり」をするのは難しくなるでしょう。

一方で、トランプとしては自分が「完敗しない」限りにおいては「喧嘩がズルズル続いた方が」モメンタムを維持できる、そんな計算もあるかもしれません。ということは、まるで1970年代から80年代の日本のように、「刑事被告人が闇将軍」というような事態が続くかもしれません。

問題は、それによって「共和党政治家の多くがトランプ票に依存する」という状態が長期化することであり、その結果として「双方が妥協できない分断の構図」が定着するということです。そんな中で、コロナの影響などで経済が大きく不調になるようだと、アメリカの国力は停滞してしまう、そんな可能性もあると思います。

そこで、年末年始に読者の皆さまにも考えていただきたいのですが、日本でも同じように起きている「分断」について「寛容」という姿勢は有効なのかという問題があります。

例えば、一つの思考実験として靖国神社の問題を挙げてみましょう。「自分の祖先は死んだら靖国に魂があるので参拝してくれ」と遺言して戦死している、仮にそう信じられる人がいたとします。その一方で、「自分の祖先は靖国信仰を伴った国家神道を戦争遂行イデオロギーとした政権によって戦地に送られて殺された」というような信念を代々受け継いできた人もいるでしょう。

この両者については、どう考えても論理的に相容れないわけです。いやいや「戦争の時代の被害者ということでは共通」だとして共通の立ち位置を探すにしても、では靖国に参拝すべきかどうかという点で、お互いの妥協点を作るのは困難です。前者が行く回数を半分にして、その半分にした回数であれば後者が渋々ついていく、などということが起こればいいのですが、問題の性質からして難しいことになります。

せいぜい可能なのは、「どちらか一方が寛容性を発揮して大きく譲歩する」という方法です。「わかった、君が年に靖国に10回いくのは認める。減らさないでいいし、自分はその10回に同行するし、賽銭投げて祈るところまで一緒にやろう」と「国家神道反対派」君が歩み寄ったとしたら、「靖国で会おう派」君の方は「そこまで言ってくれるのなら認めよう。君の寛容の精神は大したものだ」などと感謝するでしょうか?

これも難しいと思います。要するに、寛容の精神などというのは、所詮は自分の価値観には何の変更も加えないし、むしろ絶対的な優位性を持っているので、「哀れにも誤った信念を持ってしまっている相手」は「理屈として理解不能であり、丸呑みするしかない」というような姿勢が言葉の端々に出てくるわけであり、ということは「譲歩できる寛容さ」というのは、現代の日本語でいえば「絶対的にマウンティング(イヤな言葉ですが)を取りに行っている」ということになるからです。

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