2点目は、現状、つまり危機における鉄則という問題です。コロナ禍というのは、特殊な危機で、何をやっても矛盾に陥ってしまう構造があります。具体的には、
「人命優先でやらないといけない」
「経済を殺してはいけない」
という矛盾があります。そしてどちらを優先するかは、個々人によって立場も思いも異なり、しかも見事にどちらかに分かれています。更に言えば、中間の「命もほどほど、倒産もほどほど」という妥協点には支持者はありません。でも、政治家はそれをやらねばならない、その困難な構造を理解しなくてはなりません。
更に、
「感染対策については強制力を伴う必要がある」
「強制力を伴う自由の制限には必ず反発が出る」
という矛盾もあります。これもその中間的な政策を取るしかないですが、妥協案を大声で胸を張って言ってもサンドバッグになるだけです。
もう一つ、
「副反応への拒否感を抑えてワクチンの接種率確保を」
「ワクチンの拙速な接種を抑制するために危険性への理解を」
という2つの立場があります。これは前者に重心で良いのですが、後者を怒らすと全体をぶっ壊すような行動に走るリスクがあり、単純ではありません。後者の懸念があるので、正しい治験プロセスがあるというぐらいの度量を見せないとダメです。
というわけで、人間の恐怖の心理がからむ危機管理というのは、これまた専門スキルが必要ですが、現時点では全く上手くいっていません。
3点目は、立ち位置です。全国民に支持されたいので、無色透明ということではダメです。少なくとも、都市型の発想法なのか、泥臭い発想法なのか、大らかな大地風の発想法なのか、グローバル志向なのか、特殊日本的なカルチャーへのこだわりがあるのか、スポーツはどんな趣味なのか、家族はどんな感じで核家族主義なのか大家族主義なのか、どの程度守旧派で、どの程度国家衰退への危機感があるのか、菅さんの場合はサッパリ分かりません。
私はその無色透明なキャラが、統治スキルという抽象的な手法として、通用すると思っていたのですが、甘かったようです。ここへ来て、あの勉強嫌いで、親や祖父母にコンプレックスを抱き、小心者の特徴として敵味方を峻別してかかり、そのくせ日本会議に支えられ、そのくせ巧妙にリベラル政策を混ぜてきた前任者の方が、まだキャラが立っていたという感覚が広がっています。これは危険なことです。
やはり、菅義偉という人間の立ち位置を示して、自分はこういう視点から語るんだというところを見せないと、伝わるものも伝わらないという感じがします。
というような評価は甘過ぎるのかもしれませんが、とにかくこんな意味不明な「ふわっとした民意」で総理を「取っ換え引っ換えする」のには抵抗があるのです。(メルマガ『冷泉彰彦のプリンストン通信』より一部抜粋・文中一部敬称略)
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