地下鉄サリン被害者が監督。オウム元幹部の荒木浩氏に両親を会わせた衝撃ドキュメンタリー映画はなぜ実現したのか?

© 2020 Good People Inc.
 

自分を苦しめた「オウム真理教」について知りたかった

――なぜ、この映画を撮ろうと思われたのですか。

さかはら「オウム真理教が引き起こした凶悪なテロ事件の被害当事者に自分がなるなんて想像もしなかった。『僕たちをこんな目にあわせたオウム真理教って、いったいなんなんだろう』。僕はオウム真理教についてなにも知らない。同じく被害者の多くが、オウム真理教について詳しくはよく知らないままサリンに被爆している。こんなにもむごい事件を引き起こせるのは、いったいどんなやつらなんだ。ぜんぜん知らん。だから、知りたいなって。それが映画を撮った大きな理由のひとつです」

――オウム真理教の教団広報副部長をつとめた荒木浩氏に連絡を取ったとき、映画化は考えていたのですか。

さかはら「映画化は、初めから考えていました。アポを取ったのは『映画を撮りたい』と思ったからです。荒木さんは当時のオウム真理教内部の様子を知っており、いまだに麻原を崇拝し続けている。そんな彼の話が聴きたかった」

荒木浩氏が広報部長をつとめる宗教団体「Aleph」(アレフ)の道場。現在も麻原彰晃を敬うポスターなどが多く掲げられている © 2020 Good People Inc.

――映画を観ていて、まず不思議だったのが「なぜ荒木氏は自分が批判されるに違いない映画の出演を許諾したのか」でした。被害者と対峙するなんて避けたいじゃないですか。

さかはら「確かに。僕は絶対に映画にしたかった。反面、『彼はさすがに出演しないのではないか』と懸念も抱いていました。荒木さんは『A』(森達也監督)というドキュメンタリー映画にも出演しています。けれども、今回は状況が違う。地下鉄サリン事件の被害者が加害教団の人間を撮影するわけですから。僕が激昂し、荒木さんに暴力ふるったとしても、その心情を理解してくれる人はいるでしょう。荒木さんは絶対的に不利だった。そういった緊張感が伴う関係性のなかで出演してくれた。『評価する』という言い方もおかしいですが、勇気があるなと」

2015年3月20日、さかはらさんに付き添われ、荒木氏は事件現場となった東京「霞ヶ関」駅へ献花に訪れた © 2020 Good People Inc.

――出演依頼に対し、荒木氏はすぐにOKをしたのですか。

さかはら「いやあ、簡単ではなかったです。およそ一年間、土下座を辞さぬつもりで粘って粘って交渉を続けました。最初は『断られたらカメラを抱えてアレフの道場へ突入する』など撮影の強行プランまで考えていたくらいです。そうして撮入予定日の2日前に、やっと出演の承諾を得ました。『出ます』と

――やはり説得には時間を要したのですね。それにしても長い時間、ずっと被害者とともに過ごすって、荒木氏はどういう心理だったのでしょう。

さかはら「荒木さんの心のどこかに贖罪の気持ちがあったのか。あるいは、この映画に出て『自分はこれからどうなってしまうのか』と好奇心が湧いたのかもしれない。ただその点については多くを語らず、『映画に出る運命にあった』とだけは言っていました。出演依頼の連絡を初めて受けたとき、荒木さんは『ついに来たか』と感じたそうです」

出演を決めた荒木氏は腹をくくったかのように、さかはらさんと行動をともにするようになった

――「映画に出る運命」とは、なにに対してそう感じたのでしょう。

さかはら「撮影が2015年。麻原の死刑執行が2018年。撮影時には麻原の死刑は確定していましたから、荒木氏は自分のなかで何かが起きる、あるいは壊れる気がしていたのでしょう。信奉する麻原が死刑になれば、自我が崩壊するかもしれないわけですから。オウムに捧げた自分の人生を否定することになる。そうなるかもしれないという運命を感じたのでは」

――麻原の死刑が執行されたとき、荒木氏はどのような気持ちだったのでしょう。

さかはら「荒木さんは麻原の死刑執行の直後に入院しました。きっとショックだったのでしょう。なので、どういう気持ちなのかを訊くなんてできませんでした。ただ、その後にアレフの信徒獲得数が増加しており、麻原をあがめる気持ちがむしろ強固になった感があります

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