色あせぬ日台の絆。日本から渡った「台湾水道の父」の輝ける功績

 

まず城内の水田買収を計画、その翌年には衛生工事施設をつくるに当たって東京帝大のイギリス人講師バルトンが招聘されました。

バルトンは1856年生まれ。「浅草一二階」として親しまれた凌雲閣の設計者でもあります。明治20(1887)年、明治の文豪・永井荷風の父であり、内務省衛生局員でもあった永井久一郎の紹介で、東京帝大の衛生工学外国人講師兼内務省衛生局顧問技師を務めることになります。

これは、当時では最高に権威のある地位で、彼は東京の上下水道設計の責任者として活躍した。東京に9年滞在した後、日本人妻を連れてイギリスへ帰国しようとした折、台湾総督府衛生顧問であった後藤新平に要請されて渡台し、台湾総督府の衛生土木監督として赴任した。

その当時の台湾は、日本割譲に反対する反日ゲリラが出没する上に、マラリアやペストが流行していました。そんななかにバルトンは弟子を引き連れ、先兵として飛び込んでいきました。彼の弟子のひとりとして台湾についてきたのが浜野弥四郎です。浜野は、医者であり帝国議会の議員でもあった父・浜野昇のもとに生まれました。弥四郎は千葉県成田小学校から千葉県尋常中学、東京神田共立学校、一高を経て、東京帝大土木学科を卒業。大学での担当講師がバルトンでした。

浜野弥四郎が台湾へ渡ったのは、明治29年。このとき、台湾総督府は勅令第271号を公布し土木部官制を設立しました。部長は民政局長が兼任し、部内は41人の技師と83人の技師助手、その他合計180人といった大組織でした。その首席技師が浜野弥四郎です。

明治28年の始政式が終わると、早々に台北城の大規模都市改革計画が実行に移されました。バルトンと浜野の師弟コンビは、明治29年末から32年までの約3年間、台湾各地の山野を調査し上下水道工事の設計と水源地調査に奔走します。調査のため高山密林に入っても、一度も先住民の襲撃を受けなかったのは実に幸運なことであり、奇跡でした。

ところが、バルトンは台湾でマラリアに感染したため東京へもどりますが、明治32(1899)年、43歳の若さで急逝してしまうのです。バルトンが台湾で完成させた仕事は、基隆の水道のみであり、その後の工事は浜野が受け継ぎました。

師が急逝してから大正8(1919)年までの23年間をかけ、浜野弥四郎は台湾主要都市の上下水道をほとんど完成させました。工事がほぼ完成した年、東京帝大学長の佐野藤次郎の斡旋によって浜野は神戸市の技師長に就任。この1年前に、著作『台湾水道誌』『台湾水道誌図譜』各1巻ずつを台湾総督府民政部土木局から発行しています。

台湾の都市上下水道建設は、明治29年の淡水街水道建設からはじまり、昭和15(1940)年までには近代都市計画に沿って大小水道計133カ所も建設されました。総工費は3,428万円にも達し、台湾人口156万人の水道水を提供することができるようになりました。ことに、台北の鉄筋コンクリートの上下水道系統は、東京や名古屋よりも早く建設されているのです。

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